全国の通信記事
2026年5月10日号
東京西 堀之内妙法寺法華千部会
【東京西】5月10~13日に本山堀之内妙法寺に於いて法華千部会が開催された。
初日の5月10日には前夜祭として「お経揃い」が行われ、提灯行列は夜の幻想的な趣を醸し出す催しとして地域住民から親しまれている。
11日から13日にかけては、早朝の「家内やくよけ祈願」をはじめ、「被災地復興祈願」「伊豆法難会」「施餓鬼供養」「音楽大法要」など、多彩な法要が続く。期間中は僧侶による読誦が祖師堂で行われ、厳かな雰囲気の中で祈りが捧げられた。
またお昼の時間帯には高座説教が行われ、最後まで聴いていた檀信徒の方からは「生きるための知恵をいただいている」という声も聞かれた。
2026年4月30日号
東京西 吉田文堯大僧正本葬儀
練馬妙安寺 本葬儀・追悼会
【東京西】令和8年4月30日練馬区妙安寺本堂にて去る令和7年12月11日遷化 世壽97歳 禎壽院日曉上人 吉田文堯大僧正 大本山中山法華経寺第146世加歴・本山京都本法寺第92世加歴・練馬妙安寺第34世の本葬儀が営まれた。午前11時より大導師に総本山身延山久遠寺法主 持田日勇猊下御親修の下、副導師には全国親師法縁縁頭 本山本法寺貫首 瀬川日照猊下、大本山中山法華経寺参与 徳大寺住職 關観亮僧正により厳修された。弔辞には東京都西部宗務所所長浅井信英師、妙安寺筆頭総代本橋克己様より捧げられた。その後、会場をホテルオークラ東京に移して追悼会が設けられた。最後に遺族を代表して妙安寺住職吉田文雄師は、師父が護り抜いた法灯を今後も護持していく決意を述べるとともに、参列者への深い感謝と、今後も変わらぬ厚情を願う言葉で締めくくりました。
文堯師は妙安寺執事として、農地解放後の戦後の混乱期で、所有土地の確保、境界線の確定、土地台帳の整備、賃借借地の測量、誓約書の取り交わしなど困難な事業に取り組み、昭和33年妙安寺住職に就任、宗会議員を4期勤め、その間、日蓮宗宗務副総長などを歴任し宗門発展に貢献した。その後も立正大学学園理事長を3期7年勤め、大学の再開発事業に着手し、完成させた。また日蓮宗海外布教後援会会長に就任するなど、各会発展のため尽力された。
2026年4月24日号
東京西 幸龍寺で碑を整備・開眼供養
【東京西】幸龍寺で順性院殿お夏の方墓碑を整備・開眼供養を厳修
去る四月二十四日、東京・世田谷の妙祐山幸龍寺(髙佐日瑞住職)において、三代将軍徳川家光公の側室・順性院殿お夏の方の墓碑整備が完了し、住職導師のもと開眼供養が厳修された。
順性院殿(元和八年〔1622〕〜天和三年〔1683〕7月29日)は、甲府宰相徳川綱重公の生母であり、後の六代将軍家宣公、七代将軍家継公へと続く将軍家直系の祖に当たる重要人物である。家光公の厄年に懐妊したことから、災厄を避けるため家光公の姉・天樹院(千姫)の養子とする配慮がなされ、天樹院の居所である竹橋御殿において長松丸(後の綱重公)を出産した。慶安四年に家光公が薨去すると落飾し、順性院と号した。
順性院殿は法華信仰に篤く帰依し、幸龍寺第七世・日相上人を推挙するなど寺門の興隆に尽力した。天和三年の遷化に際しては、五代将軍綱吉公により境内に壮麗な霊廟が建立され、従来の五十石に加えて新たに百石の朱印地が加増され、計百五十石の寺領を拝領した。これは当時の有力本山級を上回るもので、御府内においては大本山池上本門寺に次ぐ高石高であったと伝えられる。これにより幸龍寺は、徳川家ゆかりの「香華院」として、蓮門江戸五山の一翼を担い隆盛を極めた。
昭和期に順性院殿の遺骨は上野寛永寺墓地へ改葬されたが、幸龍寺には往時を偲ぶ五輪塔(供養塔)が今日まで大切に護持されてきた。
髙佐住職の発願による今回の墓碑整備は、幸龍寺と徳川家、そして順性院殿が捧げた篤き法華信仰との深き因縁を、改めて後世に伝えるものとなろう。



















