論説
2026年4月1日号
令和の大唱題運動を提唱する
■あと5年後に第750遠忌
あと5年後の令和13年には、日蓮聖人第750遠忌ご報恩会の大節目の年が来る。
各山・各寺院では、それぞれその報恩事業を考えていることであろう。一生に1度か2度しかお会いできないこの大報恩会に、私たちは今生の報恩に、何をなすべきかを今から考えておきたい。
日蓮聖人は身延山にお入りになられて6年目の弘安2年(1279)に、弟子の寂日房日家上人にお手紙を送られた。
そのお手紙のなかに
「それ人身を受くることはまれなり。すでにまれなる人身をうけたり。又あいがたきは仏法、これ又あえり。同じ仏法の中にも法華経の題目にあいたてまつる。結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり」とある。
今生においてお題目にご縁を頂いた私たちも、過去世において10万億の諸仏を供養させて頂いたお陰であるといわれる。
このことを思う時、聖人へのご報恩は、まず第1に絶対平和の法華経の魂であるお題目を一心に唱えて、世界の平和と人類の幸せを祈ることだと思う。
■令和の大唱題運動を提唱する
今や国際情勢は混迷を深めている。ロシア・ウクライナ戦争は、いつ終わるか分らない。新たに始まった中東での戦争も、長期になるといわれている。
今や世界のどこかで行われる戦争でも、世界各国に影響を及ぼすため、世界平和が人類世界にとって、いかに大切であり、人類生存の必須条件であることはいうまでもない。
このことをお考えになられた聖徳太子は、日本の国造りに、絶対平和の法華経の教えを取り入れられて、17条の憲法を制定した。その第1条が「和をもって尊しと為す」である。第2条は「あつく三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」とある。
仏は法華経の教主本門の久遠のご本仏であり、法は絶対平和の真理が説かれる法華経であり、僧はこの法華経の絶対平和の精神を伝える人師である。この法華経の絶対平和の真理を伝える人師になろうと誓願され、世界第一の法華経の行者とならられたのが日蓮聖人である。
聖人は、末法にこの法華経を弘めるために、法華経の魂をお題目と定めこのお題目の光明で日月の如く世界を輝かす上行菩薩のご再誕の自覚をお持ちになられた。
■この山にてもおこたらず候
同じく『寂日房御書』の続きに聖人はこう書かれている。
「経に云く、『日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、この人世間に行じて、能く衆生の闇を滅す』と、この文の心よくよく案じさせ給え。『斯人行世間』の五つの文字は、上行菩薩末法の始の五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云うことなり。日蓮等、この上行菩薩の御使として、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是れ也。この山にしてもおこたらず候也。今の経文の次下に説いて云く『我が滅度の後に於いて此の経を受持すべし。この人仏道に於いて、決定して疑いあることなけん』と。かかる者の弟子檀那とならん人々は、宿縁ふかしと思うて、日蓮と同じく法華経を弘むべき也」とある。
今も日蓮聖人は、身延山から世界の平和を祈られていることだと思う。この聖人の祈りに合わせて、世界平和を祈って、大唱題運動を推進していってこそ、世界一の法華経の行者への大報恩となると信ずる。
50年前の第700遠忌も、宗門活動が盛んであった。第750遠忌もそれ以上に盛り上げていこう。 (論説委員・刀貞如)

2026年3月10日号
第650遠忌と岡田日歸上人
昭和6年(1931)10月13日、宗祖日蓮聖人第650遠忌のご正当を迎える聖人門下の寺院をはじめ、檀信徒の人たちにとって、いかに日蓮聖人の大恩に報いるべきかを、それぞれに考えられたことと、拝察できます。
日蓮宗総本山として、明治時代に宗門総意のもとに決められた身延山久遠寺におかれても、また同様でありました。
大正13年(1924)11月、第81世の身延山法主に晋山された杉田日布上人(1855―1930)は、7年後に迎える第650遠忌のご正当に向けて、宗祖への報恩事業を企画され、全山をあげて、それらの事業に着手されました。その主な事業は、1には身延山西谷に設けられている日蓮聖人御廟所の整備、2には仏殿納牌堂の新築、3には身延山諸堂の営繕、4には明治8年(1875)正月の大火以来の課題であった防火兼水道の整備などであったのです(『日布上人』3頁以下参照)。
これらの事業を推進される法主・日布上人は、その重責を担われ、翌大正14年には日蓮宗管長職に就かれています。また日布上人は、法主として粉骨砕身、全国への遊化活動にも当たられたのです。けれども、昭和5年11月下旬、ご親教の名古屋でご入院。ついに12月7日、入院加療の地(静岡県沼津市)で、76歳のご生涯を閉じられたのです。
法主猊下のご遷化は、久遠寺はもちろんのこと、日蓮宗にとって、翌年に第650遠忌大法要を営むことからも、重大な出来事でありました。宗門はただちに法主猊下の選出をはかり、昭和6年1月30日、東京堀之内妙法寺第30世岡田日歸(慈厚院・教篤)上人の身延山第82世の法主就任が決定したのです。
日布上人の本葬儀は、大導師日蓮宗管長酒井日愼上人のもと、昭和6年1月25日、新たに完成した仏殿納牌堂において営まれました。そして翌3月8日、棲神閣祖師堂で、岡田日歸上人の晋山式が挙行されたのです。
堀之内妙法寺の山主時代から岡田上人は、妙法寺の山門護持はもちろんのこと、宗門内外にわたり多くの貢献をされ、ことに女子教育のために昭和元年には「立正高等女学校」を創立、併せて「立正技芸専修女学校」を設置され、すでに卒業生を世に送り出していました。
このように、有徳の上人でしたから、3月8日に身延山の晋山式へ出発される上人を見送るため、3月7日午後11時12分、東京駅発の臨時列車を、約2万人の出家、在家の人たちが見送り、2千人を超える参加者とともに、身延駅へ向かわれました。3月8日午前6時、紫の法衣を召された岡田上人は、お変わりなく身延へ到着、晋山式にのぞまれたのです(『身延教報』第24巻第3号参照)。
身延山久遠寺における遠忌大法要は、全国各寺院の参列のもと、全3期に分けて営まれました。第1期(昭和6年4月7日から13日までの7日間)、第2期(同年5月1日から15日の15日間)、第3期(同年10月6日から15日の10日間)にわたる大法要が営まれたのです。これらの大法要の大導師をつとめられた岡田上人は、昭和8年11月15日午後6時、突然の病魔によって、遷化されました。
身延山では、杉田日布上人の1周忌法要が、ご命日の12月7日午前10時と決められていました。そこで、宗門要路出席のもと、12月8日午後1時から、岡田上人の本葬儀が営まれたのです。 (論説委員・北川前肇)

2026年3月1日号
通力と人格
旧ソビエト連邦時代に、民放の番組制作でモスクワ郊外にある施設を取材収録したことがある。「ソ連邦ジューナ研究所」という研究施設である。超能力者といわれていた本名エヴゲニア・ダヴィタシュヴィリが管理する施設であった。当時、彼女は「ブレジネフ書記長の心臓病を治したのは私だ」と豪語していた。ソ連はこうした能力の軍事利用に力を注いでいた時期で、私たち日本のテレビ局スタッフに同行していたソ連側の女性コーディネーターは、KGB(ソ連国家保安委員会)の職員でもあった。ジューナは「私は遠隔で自在に心臓を操れる」というので室内にあった実験動物のウサギの心臓を手を触れずに目の前で止めてしまい、心音がないことを確認させ、再び動かして見せてくれた。こうした能力の軍事政治的利用を事前に聴いていたので「これまで何人の西側の要人の心臓を止めたのか?」との質問をぶつけた。その時の彼女の反応は魔女がにらむようで、ぞっとした体験がある。こうした能力者をトレーニングして育て上げるというプログラムをソ連は、国を挙げて勧めていたのである。彼らは英語で表現するとExtra Sensor(異能力者)といわれていた。当時ソ連では、こうした能力者たちが至る所で監視の目を光らせていた。KGBの職員からも「空港などの入出国施設にいるから」と知らされていたので、帰国の際にある実験をしてみたところ、見事に引っかかってしまい、X線も通していないのに、荷物の中身を当てられてしまったことがある。
一方、ある国のある部隊が軍事利用として特化されており、素質のありそうな人材を集め、研究トレーニングと実験を今も存続して行っているという。遠隔透視のリモートビューイングや物質化現象、洗脳行為や他人の心を操る遠隔操作などのための人材育成や実験研究が密かに行われている。日本に帰化したという元部隊員2人と数年前に都内で会って食事をしたとき、多くの事柄や調査活動の内容を彼らから聞いたこともある。
仏教ではこのような力を通力、神通力と表現しているが、我が国では現代科学の文脈からはほど遠く、平均的な大学でもこうした超心理学の事実も教えなければ研究の対象ですらない。むしろ学問的禁忌すら感じられる。同盟国の米国ですら、表向きには「超能力は実用的ではなく成果はなく使い物にならない」と公言していたのだが、実際にはCIA(米国中央情報局)がインゴ・スワンなどの能力者を米国内から集めリモートビューイングなどの探査活動をしていたことが機密解除された公文書から明らかにされている。日本国内にも、手品やトリックではなく、人の手では曲げられない太いステンレスボルトをぐにゃりと曲げる能力を持つ者を個人的にも数人知っているが、そうした能力と人格は、全く別物である。
日蓮聖人は「通力に依るべからず」と「まず通力ある者を信ぜば、外道・天魔を信ずべき歟。或外道は大海を吸干し、或外道は恒河を十二年まで耳に湛たり。第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず」(『題目弥陀名号勝劣事』)と、神通力があるからといって正しいとは限らないと述べられる。現象は起こせるが人格的には問題があったり、社会性がなかったりする場合もある。法華経という正法によるべきで、毎回日蓮聖人の「行者は必ず不実なりとも、智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護したもうべし」(『祈祷抄』)の言葉に救われている。(論説委員・高野誠鮮)




















