鬼面仏心
2026年1月1日号
■棒さんの話
「去年今年貫く棒の如きもの」。正月を迎えるたびに思い起こす高浜虚子の句だ。この棒の如きものは「いのちのつながり」と私は勝手に解釈している。年は変われど変わらない、そのなかを貫く棒のようなものを意識して、初日の出に手を合わせ「いのちに合掌」している▼60年以上前の小学4、5年生時の日記帳が出てきた。休み中の宿題らしく、最後に先生の講評があった。本文と別に欄を作り、その日の健康状態を書き留めたアイデアが褒められていた。流感(インフルエンザ)で学級閉鎖になり友だちに会えなくなったこと、病気の友だちの心配、交通事故に遭った友だちのこと…感じた不条理に対して「なぜ?」と日記で問いかける私に、先生は「自分もその答えを探しています」と共感してくれたのがうれしかった▼先日、講演する機会があった中学校の校歌が、詩人の谷川俊太郎作詞と知った。自分が納得できないことに問いかけ、それに答えていくことが、生きていくことだと校歌は結ばれている。少年期から貫くべき棒のようなものを感じた▼合掌し祈る機会の多い正月。日蓮聖人の言を新年の言葉としたい。「一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を祈るべし(『立正安国論』)」。心から自分自身の安らぎを得たいならば、まず社会全体が平和になるよう祈るべき。これを今年の貫く棒としよう。 (雅)

2025年12月1日号
■ご首題授与の一考
ある日、分厚いご首題帳を大事に抱え、自坊を訪ねた人がいた。ご朱印集めの趣味が高じ、ご首題独特の筆跡、美しさに魅了されて日蓮宗寺院を中心に参拝しているという。今では法華経の読誦や写経、法話の聴聞と熱心に活動しているそうだ。年季の入った帳面にお題目を浄書しながら、私の下手な字を見てがっかりしないだろうかと心配した▼このご首題独特の書体は日蓮聖人考案の筆法だ。楷行草を織り交ぜ、法華経の深理を表現した唯一無二の妙形といえる。特徴は四方に延びる筆運び。通称「ひげ題目」といわれるが正式には光明点という。久遠の釈尊が遍く衆生を救い照らす光明を表す。これら古来の相伝が縷々凝縮されたご首題。書写するには熟練を要する▼宗祖の孫弟子日像上人はご首題書写について重要な相伝を遺された。「悪筆あるいは無智の僧俗これを書すと雖も大漫荼羅首題等に軽意を生ぜざれ」▼お題目の唱えに聖凡上下がないように、誰が書写しようがそのご首題を軽んじてはならないとの指南だ。私の悪筆も救われた思いだが、同時にブームに乗じた軽意なご首題授与にも一考した▼一方で寺離れが進む昨今、授与したご首題の光明が未信徒教化の端緒となっている事実も見逃せない。私たちの宗旨の根幹お題目。それを授与するという意味。今一度心して書写し、心して拝受されたい。 (子)

2025年11月20日号
■格付けなんて
テレビ番組に「格付けチェック」がある。目隠しされてワインやバイオリンなど、どれが一番高価かを当てる。なかなか当たらないところが面白いのだとか▼フランスではレストランやワインなどいろいろと格付けされている。なにかと格付けしたがるのは人間の業なのだろうか。インドでは昔からカースト制度による4つの階級があった。それに否定的だったのがお釈迦さまで、人間を階級で分けるべきではないと主張された▼お釈迦さまの話にこんなのがある。ある時、釈迦族の王子たちが、お釈迦さまの弟子になることを決意した。また理容師のウパーリもお釈迦さまの弟子にと思い、王子らより先に弟子になった。弟子となった王子たちは、お釈迦さまや先に弟子となった人たちの足元にひざまずき、礼拝をしていったが、自分たちより身分の低かったウパーリには礼拝できなかった。お釈迦さまが「ウパーリに礼拝しなさい」と繰り返し言ったが、それでも王子たちはどうしてもできなかったという▼お釈迦さまは王子たちに「四河海に入って元の名なし。衆生仏海に帰すれば釈種を称す」といわれた。河の名はいろいろあっても海に流れれば元の名はない。同じようにお釈迦さまの前では私たちも皆同じ弟子である。お釈迦さまと日蓮聖人の純粋な格付けのない弟子としての自覚のもと修行に励もう。(友)




















