鬼面仏心
2019年12月20日号
◆結構です
会議中、議論が白熱しているとき「この辺でコーヒーでも如何ですか」とすすめたとする。「結構です」という返答があった。これをどう受け止めるか▲結構という単語には、文字通り城やお堂を組み立てることなど、他にもいくつか意味があるが、今ここで問題になるのは申し分ない、つまりコーヒーを戴きたいという意味と、それとは反対にもう十分なのでいらないという意味があることだ▲正反対の意味を「結構」という単語1つで表すことができる。受け止め方を間違えれば、相手を軽んじているように思われて、好意が逆に相手の感情を害することにもなりかねない。ただ我々の日常の会話では結構という言葉の表面だけではなく「結構ですなあ、有難い」とか、「今はもう結構です」などという前後の流れ、さらに手振り身振りを交えて意思を伝えるので、滅多に間違えることはない。それにしても、同一単語が正反対の意味で通用するというのは、すごいことではないか。そこには相手の思いを忖度するという心が存在しているのである▲相手の立場に立ってこちらのとるべき態度振る舞いを考えるという在り方は、私たちの社会を支えてきた日本の心そのものといえよう。そしてその底辺には、人間は1人で生きているのではないという仏教の基本精神、合掌の心があるのだということを心にし、伝えていきたい。(直)

2019年12月10日号
「見せ消ち」
「見せ消ち」という言葉を歌人の永田和弘さんに教えられた。「見わたせば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(藤原定家)の歌は、「花ももみじもなかりけり」と打ち消されたことで、かえって花と紅葉が意識に焼き付けられるという。しっかり言い切った否定形の表現にはインパクトがあるということか▼「茹でガエルの法則」という理論がある。これは現実にはあり得ないが、環境の変化に対応することの大切さと難しさを指摘する警句として使われる。2匹のカエルの一方を熱湯に入れ、もう一方は緩やかに熱くなっていく水に入れる。前者は直ちに飛び跳ねて逃げて生存する。後者は水温の上昇を知覚できずに息絶える、というものだ▼人間もまたゆっくりとした環境の変化を受け入れてしまう傾向があり、気づいた時には手遅れになることがある。戦前に日本がたどった歴史がそうだ▼母親にこっぴどく叱られたのは何時のことだったろうか。友人が遊びに来た際、バカにするような言葉を言ったときに、目にいっぱいの涙をためて「何と情けないことを言うのか」と頬を思いっきり抓られた。いつもニコニコと笑い顔の絶えない母親のその時の怒った顔は忘れられない。思えばほめ方も叱り方も心得た母親であった。肯定(ほめ方)も否定(叱り方)も曖昧にしてはいけない。変化に鈍感であってもいけない。(汲)
