鬼面仏心
2013年10月20日号
秋の山歩きはとても気持ちがいい
秋の山歩きはとても気持ちがいい。知人を連れて裏山を案内していたところ、突然雨が降り出した。急いで下山しようと近道を通ったのだが、焦っていたためか道を間違えたようだ。気がついたら見たこともない場所へ出ていた▼どこで道を踏み外したのか、何故こんなことになってしまったのか。苦い思いとともに、様々な思念が浮かんでくる▼しかし降りしきる雨の中、余計な考えは振り払い、とにかく記憶を頼りにもとの道へと引き返し、無事我が家へ帰り着くことができた▼慣れ親しんだところでもこんなことがある。ましてや、知らない道だったらと思うと、背筋が寒くなりそうだ。思い返せば、知っている地点まで戻ったのがよかった▼ところで、戻ることのできない道もある。人生という道である。あの時、他の道を選んでいたらよかった。この人と結婚しなければこんなことにはならなかったのに、等々。後悔しても引き返すことはできないのが人生だ。それがわかっていながら、グチをこぼすのが私たち人間である▼しかしいつまでも過去を悔い、嘆いてみても、問題の解決にはならない。それよりもこの先どこへ行きたいのか、目標をしっかり持つことが重要だといいたい。目標が定まっていれば決して道を誤ることはない▼どんなご法難に値われても、法華経流布のため、と明解な目標を示された宗祖に学びたい。(直)
2013年10月10日号
日本の文化としては雅楽や
日本の文化としては雅楽や伝統芸能の分野、生活様式の分野、また茶道、華道、書道などもあり、さらには精神文化としてのものもある▼先日、北海道の温泉施設でニュージーランドの先住民族マリオの言語指導者の女性が、顔の入れ墨を理由に入館を断られたという。その女性の唇とあごの入れ墨は、「タ・モコ」と呼ばれる母親や先祖を表す家紋のようなもので、社会的地位なども示す伝統的なもの。いわば民族の尊厳の象徴であり、日本でいう反社会的な入れ墨とは違う。温泉施設側では「入れ墨に威圧感や恐怖を覚える人がいる」というのがその理由である▼江戸時代では入れ墨は「刑罰」として使われていた。前科のしるしとして額や腕に入れられ、前科者と呼ばれていた。また「がまん」ともいわれ任侠のやくざ者が粋で入れてもいた。ゆえに日本では、入れ墨は反社会的なものとして認識されてきた。公衆浴場などで「入れ墨お断わり」という注意書きを見るのはそのことによる▼最近の入れ墨は「タトウ」と呼ばれ若い人や、スポーツ選手にも入れているひとが目立つ。2020年の東京オリンピックに向けて外国人も増え、必然的に入れ墨を文化としている民族も多数来日してこよう。入れ墨ばかりではなく、さまざまな異文化をもつ人たちを、どう受け入れるかが課題である▼「みんな違って、みんないい」(金子みすず)改めて心に刻もう。 (汲)
2013年10月1日号
今年も敬老の日を迎えた。
今年も敬老の日を迎えた。65歳を過ぎて聞く敬老という言葉の響きは複雑だ。まだ現役であることに疑いを抱かずこの調子なら80歳は間違いないと確信していたはずが、様子が違ってきた。立ち上がるたびに腰や膝の存在が気になる。いつか役所から届くであろう敬老会への招待状に恐れおののく▼高齢者を敬うという考えに異論を挟む余地はない。大いに結構だが、未だに現役で社会に出ている人も多い。何歳になったら敬老会というのではなく、いつでも年上の人たちを敬う気持ちを持つというのが良いのではないか▼年忌法要の後、お斎の席に呼ばれて座った。私の右隣には90歳、左隣には80歳の男性が席に着いた。お二人ともなかなかの酒豪で、話題も豊富だ。そのうちに90歳の方が80歳の方にこう言われた。「若くてええのお」▼誰も人生のなかで「今」が一番良いに違いない。腰が張る膝が痛いといって健康な若者をうらやむのではなく、今ならまだこれができるというプラス思考で生きた方が良い▼ところで日本ではよく見かける、腰が曲がったお年寄りが一人で歩いている姿は外国の人には奇異に感じられるらしい。そんなお年寄りを一人で歩かせるなんてとんでもないということらしい。私の母親は86歳になった今も毎日自転車でデパート巡りをしている。元気なうちはお年寄り扱いしない方が良い。 (寮)