鬼面仏心
2016年4月20日号
山林保護の活動をしている知人がなげく。
山林保護の活動をしている知人がなげく。公共機関の補助金を受けるため、これこれの予算で活動したいと申請して得たお金は、その期間内に使い切らなくてはならないのだという。長雨で作業ができず、残額が出たとする。それは返納しなくてはならないそうだ。次の年度に繰り越して、雨でできなかった残りの活動をしたいと思っても、返した資金がなければ動けない。かといって次年度にまた同じ補助金額がもらえるかというと、アテにはできない▼そう言えば年度末になると、行く先々で道路工事などの交通規制に出会う。時によっては車の渋滞など、我々が受ける影響も小さくはない。何もこの時期に集中してやらなくても、と言いたいが、自然災害など不時の支出を考慮し、もう大丈夫と見極めた上でとる措置なので年度末になるのは仕方ないのだという▼どちらの場合も、資金を次年度に持ち越して適切な時期にゆっくりやればと思うのだが、当年度は当年度の予算でやるべきでそうはいかないのだという。こんな杓子定規の考え方でこの国が果たして良くなるのだろうか▼今あるもの今できることを貯え将来に活かす。法華経に説く「積功累徳>」がこれだ。積善の功徳を、今、自分の都合だけで消費するのではなく、未来の世のため他のために活かそうという思いが込められている。信仰の世界に生きる者として是非こうありたい。 (直)
2016年4月10日号
「戦争は人間の本能だ」という考えが
「戦争は人間の本能だ」という考えが人類学や哲学の分野で広がりつつある。欧米やアフリカで発掘された縄文期と同じ狩猟採取時代の遺跡から、大量の虐殺を示す人骨が発掘され、暴力での死亡率が十数%だとする研究データによるものだ▼岡山大学の松本直子教授、山口大学の中尾央助教らの研究グループが全国の縄文遺跡から出土した人骨を調べ、暴力による死亡率は欧米のデータの5分の1以下の1・8%と算出し、3月30日の英国の科学雑誌に発表した。戦争の発生は環境、文化、社会形態などの要因で左右されるという。縄文時代は1万2千年もの間、戦争のような争いの形跡はないとされてきたが、それが実証された▼縄文時代にはすでに死者の埋葬が行われていた。子どもの手形、足形付の土製品も発掘されている。何のためかは不明だが、幼くして亡くなった子どものものを、家の中にひもを通してつり下げて偲んでいたのだろう。死者を悼む気持ちが伝わってくる。青森県八戸市の国宝「合掌土偶」は豊穣や安産の祈願ともいわれるが、どれにしろ家族、集落の安穏を祈る姿なのだろう。火を囲んでの団らんの声が聞こえてくるようだ▼存知のことだが敢ていおう。常不軽菩薩の人間礼拝行はすべての差別を超えた行いであり、それぞれの家族の安穏、あらゆる人の争いのない平安を、そして皆が仏になることを祈ってのものである。(汲)
2016年4月1日号
最近、料理に興味が出てきた。といっても
最近、料理に興味が出てきた。といっても美食家になったというのではない。中学生になった孫の弁当を作る喜びを見つけただけのことだ▼小生が中学生の頃はアルミの大きな弁当箱にご飯とおかずが同居するというのが主流だった。女子生徒の弁当を覗いたことはないが所謂キャラ弁などというものはなかった▼それに引き替え現代の中高生たちの弁当の華やかなこと。指南書まであるという。こうなると自分の孫だけ日の丸弁当というわけにもいかず、料理に取り組むようになった次第である▼日本中で多くの親が同じことをしているのだと思うとなんだか愉快にもなるのだが、それをしてもらえない子どものことに意識が行ってしまうのは性分だ▼高校生の時、昼食の時間になるとクラスを抜け出す同級生がいた。学校の近くにおでん屋だのうどん屋だのがあってそこで昼食を摂る輩もいたので気にもしなかった。ところが、社会人になって再会した彼に聞いた話には驚いた。当時、彼の家は貧しくて弁当を作ってもらえなかったというのだ。それを同級生に知られないように昼食時にはクラスを抜け出し、校舎の屋上で水道水を飲んで飢えをしのいでいたという▼決して過去の話ではない。現代になっても、いやこういう時代だからこそ同じ思いをしている人たちは多いはずだ。周りを見回してみよう。誰もが幸せに生きたい。(寮)