鬼面仏心
2015年1月20日号
昔は実にいろんな神さまがいた。
昔は実にいろんな神さまがいた。山にも海にもいたし、もちろん鎮守の森や街角の祠、家の井戸やトイレにもいた。太陽はお天道さま、月はお月さま、そして雷は雷さまと人間並みの敬称で呼ばれ、恐れと敬いの心で人々は接した▼ギリシャ神話を読むと、昔のヨーロッパにもいろんな神がいた。太陽はアポロ、海の神はポセイドン、音楽の神はミューズ。そんな信仰を多神教とか汎神論という。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教といった一神教は、そういう汎神論的思想を異端邪教説とし、世界中から多くの神々を抹殺した▼科学もまた、神殺しを進める力となった。特に知的文化人といわれる人ほど、世の中には神も仏もなく、そんなことは迷信だとして無神論無宗教を自慢した▼日本最初の原子力発電所には名前があった。文殊と普賢、つまり智慧の文殊と慈悲の普賢、どちらも仏教の菩薩の名前だ。強大な力を持つ原発に、菩薩の名を付け、仏さまに接する敬いと怖れの心で接しようとした日本人。それが1号機、2号機と単なる機械になった時、事故が起きたのでは▼こだま、ひかり、のぞみ、はやぶさ。新幹線の名前だ。名前が付くとなんとなく機械が人間化し、親しみが湧き、大事にしようという気持ちになる。新幹線が無事故なのはそのせいか▼もう一度、あらゆるもののなかの「いのち」という名の神を取り戻そうではないか。(義)
2015年1月10日号
娘の幼稚園では食育に力を入れている。
娘の幼稚園では食育に力を入れている。田植え・稲刈り・芋掘り・リンゴ狩り、さらにそれらの食材を使ったクッキングなど年間を通して楽しい行事が目白押し。中でも園舎の屋上にある菜園は大人気。園児が自分たちで買いに行った野菜の苗を毎日せっせと世話をする。日に日に赤くなっていくトマトに目を輝かせ、花の下から顔をだしたキュウリの赤ちゃんを見つけて歓声をあげる。大嫌いだった野菜が愛おしくなる瞬間だ▼自分たちの手で、栽培・収穫・調理をして頂くことにより、生命のサイクルを実感して命の尊さを学ぶ機会となっている▼ある日、「いのちってなあに?」と娘。「みんな生まれてくる時に仏さまから一つずつ頂いてくるものなの。ひーちゃんも金魚も犬もみんな。」「ほとけたんがわけてくれるの?」「そうだよ」「はんぶんこちて?」「うん…」「みんなにはんぶんこちてたら、ほとけたんのがなくなっちゃうよ。ひーちゃんのぶん、ほとけたんにかえちてあげる♪」▼娘の言葉にハッとした。仏さまから頂いたと思っていた命…違う、それは仏さまからお預かりしている命。たくさんの命を繋いだみんなの命♪ 久遠の仏さまの命はみんなが繋いだ大きな命。自分のものだと思うと、ぞんざいになってしまうこともある。いつの日か仏さまのもとに帰る時、ピカピカにしてお返しできるように大切に磨いていかなければ。(蛙)
6歳の娘と身延山奥之院登詣に出かけた。
6歳の娘と身延山奥之院登詣に出かけた。私は8年ぶり。娘は初めての山登り。一抹の不安を胸に西谷を上がり大本堂裏の登り口へ。既に足取りの重い娘が一言「ママもう着いた?」先が思いやられたが、頂上の五十丁を目指さねば▼雲行きの怪しい娘に、ほら珍しい鳥がいるよ! 何の実かな? 必死に気持ちを上げようとするも、上がるのは息ばかり。呪文のように「足が痛い」と呟く娘。すると差し掛かった丈六堂からお題目の声▼「のんのんしてるの?」それから先はお題目を唱えてそれに合わせて足を踏み出す。途中、杖になりそうな木の枝を拾って歩みを進めた。お題目が声にならない時もあった。何十回休憩したか知れない。やがて眼下に富士川が。頂上は目前。ゴールが見えると疲れと反して足取りが軽い▼『思親閣』の文字が見えた時、二人に笑顔が咲いた。「よく頑張ったね」すると「1人でここまで来たんじゃないから」と娘。「この杖さんがなかったら登れなかったよ」”ママのおかげ”を期待した自分に苦笑しつつ、娘が何かの「おかげ」をしっかりと感じていたことに驚く▼実は今回、やんちゃ盛りの娘の精神鍛錬のためにと思い立った登詣だった。きっと娘はお祖師さまに頭をなでて頂けたことだろう。小学校に上がっても、この自信を胸に頑張ってほしい。そして彼女にとってお題目がかけがえのない人生の杖となりますように。(蛙)