鬼面仏心
2022年5月20日号
■天災・人災
東日本大震災から11年だが、変わらず日本の各地で地震が頻発している。3月16日に福島県沖で発生した最大震度6強の地震。復興半ばの福島県や宮城県では、3・11を超える大きな被害を受けた地域もあるという。度重なる災害に「天災だから」と語る被災者が気の毒だ。地震は天災。私たちにはどうしようもない。できるのは被災者を励まし、復興支援をすることだ▼そんな中、大国ロシアが突然ウクライナに侵攻。破壊され瓦礫と化した街や建物。泣き叫ぶ子ども、国外に逃げる人、地下室に身を隠す人。そして残忍な虐殺が。テレビはそんな惨状を伝える▼戦争は人災だ。しかも人間が犯す最大の犯罪だ。いかなる理由があろうと犯してはならない大悪だ。そして戦争の被害者は戦争を始めた政府高官や将軍ではない。常に罪もない一般国民だ。ウクライナの1日も早い平和を願うと共に、国のために戦う彼らの勇気に声援を送りたい▼戦後77年。平和と安全に恵まれた日本。しかしこんな時代にも、力で相手を屈服させようとする国が存在することを忘れてはならない。地下室や核シェルターのいらない平和な日本でいるためにどうすればよいのか。地震という天災に備えると共に、侵略や戦争という人災を起こさないための備えも重要なのでは。日蓮聖人の『立正安国論』を、もう一度学びなおさなくてはと思う。(義)
2022年5月10日号
■3人で
先月、実家の父の1周忌を営んだ。新型コロナウイルスの感染拡大で県外の弟や持病がある伯父たちは参列が難しく、母と私の2人きりだった。いつものお檀家さんの法事と同じように、私は塔婆を書き、本堂の金襴の座布団に座った。「お父さんの法事だけど、導師として平常心で勤めなければ」▼けれども、開経偈を唱えながら、ふと目に留まったご宝前のお供物。バナナやみかん、どら焼きやお饅頭など、どれも父が好きだったものだ。心ばかりとは言うけれど、母がどんな気持ちで買い求め供えたかと思うと、胸がキュッと切なくなった▼後ろで一緒に方便品を唱えている母の隣に、かつては父も座っていたんだ…。読めないお経を一生懸命に読もうとしていたっけ…。やがて自我偈になると懐かしい父の声がしたような、また親子3人で仏さまに手を合わせている心地。お題目も、父もそばにいて共に太鼓を叩いて唱えているよう▼気づけば、私たちは心ゆくまでお題目をお唱えしていたのであった。穏やかに微笑む父の面影が目に浮かび、この功徳がたしかに追善供養になったのを感じた。思わず見上げた仏さまのお顔が本当にありがたくてまた手を合わせた▼父との時間を過ごせた今回の法事。その後のお供えのお饅頭が一段とほっこり美味しかった。3回忌にはこのお饅頭を、みんなで食べたいなぁと思った。 (花)
2022年5月1日号
■情ないがない世に
マラソン大会に出る市民ランナーからこんな話を聞いた。彼は大きな池の周回路を練習場にしている。普段はそんな考えは浮かばないが、大会直前の集中練習をしている時、ゆっくりと散歩している人を「邪魔」と思うことがあるというのだ。子ども連れやカップルが「30分で1周」という目標達成への妨げに見えるという。他者の存在に眼を向ける心の余裕がなくなるのだろう▼コロナ禍に加えロシアのウクライナ侵攻など、混沌とした世の中で、人は欲望の上に己の幸せを築こうとしているように見える▼日蓮宗の布教方針「いのちに合掌」という言葉が私は好きだ。私たちの手は握れば拳、開けば掌に。掌と掌を合わせれば合掌となるのだ。合掌とは私たちが今忘れかけている和の心、祈りの心、尊敬と信頼、感謝の心のあらわれであると思う▼日蓮聖人は「あなたが心から自分自身の安らぎを得たいと思うなら、何よりもまず、社会全体が平和になるように祈るべきである」(『立正安国論』)と示された。聖人にとって祈りとは、人びとの苦悩に共感同苦し、社会全体の平和の実現を通して、個人の幸せと安らぎを得る菩薩の道を実践することだった▼江戸時代の古歌に「鮎は瀬にすむ、鳥は木にとまる、人は情けの下にすむ」という言葉がある。情けない世の中にならぬよう、皆で菩薩の道を歩んでいこう。 (雅)