鬼面仏心
2016年5月20日号
先日電車に乗ったときのことだ。席に着いて
先日電車に乗ったときのことだ。席に着いて車内を見まわした私は凍りついた。かなりの数の乗客が乗っているのに話し声ひとつ聞こえない。しかもほぼ全員が、周りに目を向けることもなく下を向いている。何と乗客全員がスマホに熱中しているのだ。その異様な光景に、一瞬違った世界に迷い込んだような不気味さを感じた▼情報機器の進歩はまさに日進月歩。なかでも「スマホ(スマートフォン)」は凄い。これさえあれば世界中どこにいても誰とでも話ができる。世の中の情報が瞬時に届き、難しい漢字を調べたり、新幹線や飛行機の予約や購入、そして居ながらにして買い物もできるのだ▼人間は道具を使う生きものだ。道具は私たちの生活を便利にした。しかし道具=便利ではあっても、便利=幸せかどうか。人と人が顔も見ず言葉も交わさずスマホに熱中する姿に、道具に使われた人間不在の社会を感じた▼「若い人など、自動車もいらない、新聞も読まない、テレビも見ない、高価なブランドにも関心はない、ただただスマホがあれば足りる、という時代になってしまった」と佐伯啓思氏は著書で語っている。確かにスマホは道具としてすぐれものだ。しかし鋭利な刃物が使い方でドスにもメスにもなるように、便利なスマホは便利なだけに、使い方で人や社会を不幸にすることも。便利になればなるほど、道具を使う人間の智慧が重要になる。(義)

2016年5月10日号
去年の夏、子どもたちと庭で遊んでいると
去年の夏、子どもたちと庭で遊んでいると「ブブブブブ…」もの凄い羽音をたてながら大きなスズメバチが飛んでいった。あくる日もまたあくる日も。どうやら境内に通り道があるらしく、本堂や庫裡に入り込むこともあった▼刺されたら一大事、はやく退治しなくては。しかし巣はどこに? 裏通りにある古い空家かな?うっそうとしているご近所さんの庭…あそこかな? しかし見つからない。ハチに怯える日が続いた▼それからだいぶ経ったある日。普段なかなか開ける機会のない母屋の小窓を開けた時のこと。寺の裏側が見える窓からふと上へ目をやると、茶色の壁に同化して佇む大きな塊を発見した。不気味なマーブル模様の球体は間違いない、スズメバチの巣だ。あんなによそを探した蜂の巣が、まさか自分の家にあったとは▼面倒な現象が起きると、ついつい外に原因を探してしまいがちだ。しかし様々な問題の原因は案外すぐそばにあるのかも知れない。そう、自分自身の心の中に▼日蓮聖人は「地獄の世界も仏の世界も外にあるのではないのですよ。自分自身の心の中にあるのですよ」と、おっしゃっている。何かトラブルがあった時こそ自分を見つめなおす時。いつの間にか大きくなっていた蜂の巣のように、嫉妬や欲望は知らず知らずのうちに心を支配してしまう。心の窓を大きく開けて、お題目の風を常に吹かせていきたいものだ。(蛙)

2016年5月1日号
日本人は高い受信能力を持っていると思う。
日本人は高い受信能力を持っていると思う。空気を読み、相手が言わんとすることを察する受信力は勝れている。しかし、物事をはっきりと伝えたり、反論や空気を恐れずに発言する発信力は足りないように見える。そのなかで日蓮聖人は、高い発信力を晩年まで持ち続けた稀有な存在だと私は思う▼日蓮門下たる私も、宗門運動のサブテーマ「組織で動く」に倣い、拙寺だけの「合掌してありがとう運動」を展開しようと考えている。さきがけて「合掌」というテーマで掲示板にこんな言葉を掲げてみた。「握れば拳 開けば掌 合わせれば合掌」。解説文に「混迷の時代を生きる現代人は、日蓮聖人が身を以て唱えたお題目の道を歩むことによって、不安や混乱を乗り越えていけると信じます。お題目の道は合掌によって生かされる道です。『ありがとう』と合掌・感謝して生きぬく道でもあります」と書いた▼ただ「お題目の道」と定義すると身構えてしまうため説明を要する。そこで檀信徒には法華経薬草喩品第五の「道を以て楽を受く」の文を説く。真理の道を歩くことによってこそ、本当の意味での楽しい人生を送ることができると釈した▼発信することによる説明や反論は自分を磨く材料。議論はチャンスだと思って意見交換を楽しんだほうがいい。「道」によって得る楽は無限であり、物や環境の変化によって変わるものではないと信じるからである。(雅)
