鬼面仏心
2013年4月20日号
「何という人だ!」
「何という人だ!」 電車の中でマナーの悪い人を見たときなど、誰しも憤りを感じる。それが近頃あまり感じなくなってきた。人格が練れてきたと言いたいが、そうではない。理不尽なことが多すぎて、もはや腹を立てる暇もないというのが真相だ▼ところが思わず「もういい加減にしてくれ」と言いたくなった。寒さの戻った夜のこと、風呂に入っていると電話が鳴った。家の者が出ていたときで、慌てて飛び出し、浴衣を引っかけただけで受話器を取った▼さる大手会社の代理店だという。営業の電話かと思いすぐ切ろうとすると、大切なお知らせなので聞いて欲しいという。寒さが押し寄せてくるのに耐えながら取りあえず聞いてはいるが、中々本題に入らない。一体どんな用件かと強く問うと、結局は自社の商品を買うとお得ですよとのこと。まったく腹立たしい限りだ▼ではいっそ人のいないところへ行けば腹は立たないかというと、石につまずいたり、カラスに馬鹿にされたりと、それはそれで腹立たしいことはある。この世に生きる限り堪え忍ばなくてはならないことは釈尊の時代から明言されている。それ故この世は「忍土」と呼ばれ、仏とはよく堪え忍ぶことの出来る人という意味で「能忍」という▼憤ってみても問題の解決にはならない。今月は釈尊ご降誕の月。仏に習い先ずは忍の心を持つようにとの仏の戒めかもしれない。(直)
2013年4月10日号
以前よく通っていたコーヒー専門店
以前よく通っていたコーヒー専門店に数年ぶりに入る。途端に懐かしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。馴染んだ香りと店のたたずまいだ▼「馴染む」とは「馴れ親しむ」こと。「馴れ」とは衣類などが身体になじむことだという。(『字統』白川静著)▼衣類に限らず、靴もそうだ。寒い季節が終わり春先に数ヵ月ぶりの靴に足を入れる。履き馴れているはずなのに、何か違う。足の裏にミョウな違和感を覚える。「こんな感じだったかな」と思いながら履いていく。30分も経っただろうか、ふと気が付くと、足の裏からあの違和感が消えている。いままでずっと履いていたかのように、当たり前に馴染んでいる。足の裏が記憶していたのであろうか▼衣類では洋服よりも着物の方が、馴染むという表現が合う。着物は、いくつもの空気の層が作られ保温性が増す。胸部で5割、腹部で5割強、脚部では3倍近く暖かいというデータがある(NHK「アインシュタインの眼」)。いくつもの空気の層が「馴染む」ことに繋がるのだろうか▼あるお檀家の方が「何かあると、ついお題目が口から出てくるんですよ。小さい時からお題目を聞いていたから、耳に残っているんでしょうか」と話してくれた。久しく馴染んだものは身体が記憶しているものだ。忘れていても何かのキッカケで思い出す。その耳に残る種をまき、キッカケを作るお寺でありたい。(汲)
2013年4月1日号
徳川慶喜ゆかりの高級料亭で
徳川慶喜ゆかりの高級料亭で会合と食事をする機会があった。通されたのは大きな池のある見事な庭に面した離れだった。玄関には初老の下足番の男性がいて脱いだ履物を手際よく片付けている。食事の途中で、京都から来ていた客の一人が早めに席を立ったので、玄関まで送りに行ったところ、その客の履物だけがきちんと揃えて沓脱ぎ石の上に置いてあった▼客の足下を数秒見ただけでその客が履いて来た靴がわかるのだと下足番の男性は言った。一見の客であっても脱いだときに確認しているのだそうだ▼玄人とはこういう人を言うのだろう。私たち僧侶にこれだけの意識があるだろうかと、我が身を振り返ってしまった。読経や所作を間違えてしまうことは時にはあるのではないか▼在京の本宗寺院でのことだ。某有名女優が施主となって法要を営んだとき、出仕した僧侶の一人が間違いをおかしたが法要は進められた。終わって控え室で休んでいると女優が抗議に来た。「私たちは毎回の舞台を真剣勝負でやっているんです。お坊さんは気楽でいいですね」▼恥ずかしい限りだ。人間のすることに間違いはつきものだが、仏事に携わる玄人としての自覚が足りていたかなと今更ながら自省する。(寮)