鬼面仏心
2014年5月20日号
日蓮聖人は清澄寺の虚空蔵菩薩に
日蓮聖人は清澄寺の虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈った。虚空蔵菩薩は〈福徳〉と〈智慧〉の菩薩。後年、佐渡でも「智者に我が義」が破られない限り、法華経を捨ててはいけないと「智」の大切さを述べている。〈智〉は聖人の思考の軸であり、聖人の宗教は「智の宗教」だ。なぜそれほど〈智〉を重視したのだろう▼物事の正邪は〈智〉で判断する。〈情〉や〈利〉ではない。8万4千といわれるお釈迦さまの教えのなかから、末法の私たちを救う真の教えを見分けるには〈智〉が重要。だから聖人は「智者」たらんと祈ったのだ▼ところで私たち日本人は、物事を「何となく」という〈感情〉と「損か得か」という〈勘定〉で判断する民族だという。仏教の受容も実は教義ではなく、黄金に輝く仏像にありがたさやご利益を感じたからだ。この悪癖は今も変わらず、政治や重要な物事の判断さえ「何となく」とか「みんなが」で行っている私たち▼死後の極楽往生を説く浄土教を聖人は徹底批判した。それは「何となく」という〈情〉の信仰で人は救えないからだ。〈智〉によって法華経・お題目の信仰を導きだした聖人。しかし「智に働けば角がたつ」と夏目漱石が言うように、「智の宗教」であるが故に数々の法難に遭われた。日蓮宗徒は〈情〉や〈利〉に惑わされない〈智〉の信仰をしなくてはと思う。(義)
2014年5月1日号
年に一度呼ばれる家がある。
年に一度呼ばれる家がある。山林を管理し、木材を出荷する山持ちの家だ。先祖は修験道の山伏だという。法要の後の宗教談義が楽しみで、彼の話を聞く。明治政府の廃仏毀釈の嵐のなかで、修験道は禁止された。その時、17万人の山伏が俗に戻されという。明治初期の日本の総人口は3300万人、17万人はとてつもない数だと彼は言う▼現世利益の加持祈祷を中心に、庶民のなかに根を降ろした修験道にとって、祈祷が迷信とされ、宗教の近代化とは「こころ」の問題を中心とする宗教の内面化にあるという政策は、大打撃となった▼代々伝えられてきた教典や道具は打ち捨てられ、辛うじて厄除けなどの行事やお守りなどが習俗となって残った。が「行」は捨てられた。心だけでなく、身体を使う修行を排除して宗教は成り立たない。頭のなかだけの宗教になってしまう。外界は価値を失い、自然に対する畏敬の念が失われ、修行の場である山も荒れた。信仰の対象も心のなかに閉じ込められ、神仏は居場所を失ったとさえ彼は考えている▼必要なのは、身体性の回復であり、感性の重視で、「行」の復活が重要なのだと言うのだ▼日蓮聖人は、禅の自力や浄土系の他力と根本的に違う立場から、仏と凡夫の互具を説く。仏の子たる我々は、既に仏の慈悲のなかに居て、日々の「行」を勤めている。我々は行と学の二道を離れて歩めないのである。(雅)