鬼面仏心
2015年11月20日号
人はそれぞれの価値観で生きている。
人はそれぞれの価値観で生きている。価値観、つまり大事にしている生き方だ。命や健康が第一という人、お金が第一、地位や名誉が、仕事が、家族が、いやお酒や遊びが第一と言う人。人によっていろいろだ。いろいろあって良いと思う▼しかし最近の日本人は、全員がお金第一という価値観になってはいないだろうか? お金のためには「損得」が大事。「尊徳」などといった生き方は無用。また人との「縁」よりも、お金の「円」の方が大事。その結果世に中はギスギスし、人間が何となく安っぽく、薄っぺらになった気がする▼推されても校長にならず、一生僻地の教頭として生きたN先生。苦労して育ててくれた歳とった母との生活と僻地の子どもの教育を大事にしたためだ。退職の日、地域の全員が集まって祝ってくれた▼女手一つで育ててくれた母と一緒に暮らすため、転勤をせず、駅長になることを拒否し、田舎の小さな駅員として生きたTさん。退職の日、通学の高校生から感謝の花束をもらった。彼の唯一の勲章だ▼名もなく、地位もなく、そしてきっと裕福ではなかった彼ら。しかしそんな彼らに爽やかな風と香りを感じるのは、「損得」よりも「尊徳」に生きた人が放射する仏のオーラのせいか▼日蓮聖人は「蔵の財より身の財、身の財より心の財第一なり」と説かれた。現代はその教えとは真逆の世界だ。聖人の価値観を取り戻す活動をしなくては。(義)
2015年11月10日号
チャペルの結婚式で参列者が当たり前のように
チャペルの結婚式で参列者が当たり前のように賛美歌を歌っているのを見ると、何だかうらやましくなる。キリスト教の賛美歌に比べると仏教讃歌の知名度は低い▼仏教讃歌はお釈迦さまや宗祖の徳を讃える歌。明治以降、西洋音楽を取り入れて子どもから大人まで親しみやすいメロディで作られてきた。仏教に音楽? と思うかもしれないが、仏さまの世界が綺麗な音楽で溢れている様子はお自我偈にも説かれている▼私が最初に出会った仏教讃歌は、幼稚園で歌った『しっている』だった。「ののさまは口ではなんにも言わないが♪ ぼくのしたことしっている♪」子ども心に「ののさまってすごい!」と思ったものだ▼やがて大人になり再び出会った仏教讃歌、故・磯貝静江先生率いる合唱団の歌に私は衝撃を受けた▼「三帰依文」の絶妙なハーモニー、「蓮の花」のすがすがしさ。その素晴らしい歌声に感激すると共に、それ以上の何かを感じた。そこには仏さま・お祖師さまへの恋慕の想い、お題目と共に生きる喜びが歌い上げられていた。信仰の喜びに裏打ちされた歌声は輝き、その喜びを分ちあいましょう…と語りかけてくるようだった▼幼い心に刻まれた仏さまの存在は生涯の宝となる。歓喜に満ちた歌声は新しい信仰の花を咲かせる。子どもたちと一緒に歌う仏教讃歌の歌声は、日本中を、世界中を仏さまの世界に変えていくにちがいない。(蛙)
2015年11月1日号
人が「健康でありたい」と願うのは、
人が「健康でありたい」と願うのは、世代を問わず人類共通の願いと言っても過言ではない▼WHO(世界保健機関・国連の専門機関の一つ)が平成10年に発表した健康の定義の中に注目すべき文言が入っていた。「健康とは、完全な肉体的、精神的、霊的及び社会福祉の活力ある状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない」と。人間が幸せであるという状態は、体の健康、心の健康、社会的環境の健康の他に霊的な健康も含めていこうという提案だ。わかりやすく言えば、単に身体や心が健康であれば幸せなのか? 社会が順調であれば幸せななのか? いやいや違うだろう。魂の問題・宗教性の健全さが、人間の幸せを考えるうえで大切じゃないかというのだ▼委員会では可決されたが、翌年の世界保健総会(WHOの最高意思決定機関)では否決された。現在でも認められていないが、反対しているのは、欧米の先進国、そして我が日本だ。賛成しているのが中東・アフリカの国々で、政治的配慮や宗教的対立があるかもしれない。日本はとくに公式の声明に、宗教的文言が入るのを嫌う▼しかし、もしこれが正式の声明となったら、今の日本の状況をどう説明するのだろうか。無宗教を標榜する多くの人びと、生活の中から消えていく宗教性。日本は「健康ではない」とWHOから判断されるかもしれない。 (雅)