鬼面仏心
2013年12月20日号
双六遊び。お正月になると、
双六遊び。お正月になると、友だちが集まって興じたものだ。サイコロを振って目の数だけ進んでいくが、上がりの位置へ丁度収まるように目を出すのは至難の業だ▼運良く上がれば上がったで、あまり順調に行きすぎると、後はすることもなく、ただ他人の興ずるのを見ているだけのこととなる。自分はトップだという思いと、人の輪から出てしまったという疎外感が襲ってくる▼そんな思いがあってのことか、「私、仏になんかなりたくありません」という人に出会った。その人の言うには、仏になるということは、輪廻転生からの解脱。つまり人の沢山いる輪の中から外に出てしまうということではないか。そうなれば、今の世界にはもう戻れなくなる。そんな寂しいことはないでしょう、というわけだ▼でも成仏とはそんなことなのだろうか。釈迦族の王子シッダールタが釈迦牟尼仏という仏になって、それで上がり。後は関知しないということだったろうか▼否、仏として私たち衆生を救おうと守護の手を差し伸べ、時には姿を変えて私たちを教え導く。そのためにこの世に顕れ留まっておいでなのだ。仏は私たちと共に在るというのがその真のお姿なのだ▼成仏とはそのための大切な第一歩である。決して成仏して終いなのではない。修行は終着ではない。修行を志す人、修行の途次にある人。ともに仏の跡をしっかりたどって欲しい。 (直)
2013年12月10日号
「三秒間ルールだから大丈夫だよ」と
「三秒間ルールだから大丈夫だよ」と娘に言われたことを思い出した。小学6年の時だから、もう12年も前のことだ。食べ物を床に落としても、三秒間のうちに拾って食べれば汚くないという。子どもたちの間で言われている都市伝説らしい。食物に限らず、あらゆるものを大切にすることに繋がるのではと、「なるほど」と感心したものだ▼本阿弥光悦は清貧の人として知られているが、それは光悦の母、妙秀の教えによるものである。妙秀は「慳貪にして富裕なることを嫌った」(『清貧の思想』中野孝次著)という。それは徹底していたようだ。慳貪とは欲深く慈しみの心がないこと。つまり貪欲で、自分さえよければ他人はどうでもいいと思う者のことである。妙秀が重んじたのは何より人の心のありようと、物欲を持たないことであった。その時代の富裕者は非人情なことをする者も多く、許せなかったのだろう。それを体現するかのように、90歳で唱題のうちに臨終を迎えるが、残ったものは単物一枚、袷の帷子二枚、浴衣、紙子の夜着、木綿の蒲団、布の枕だけで、あとは何もなかったのだ。他の物はその都度、人に分けていたのだという。「欲少なく、足るを知る」人生だった▼「知っていますか?子供たちが将来使う資源を、私たちがいま、使っていることを」「僕の分は?」(ACジャパン)「もうないの?」そんなことばを言わせてはならない。(汲)
2013年12月1日号
本末究竟等と言うから順番はないのだろう
本末究竟等と言うから順番はないのだろうけれど十如是の最初は「相」八正道は「正見」五蘊も「色」から始まる。そうか、見て知ることが全ての始まりなのに違いない。見る、知る量が多いほど、その後の生き方に幅と奥行きも出るというわけだ▼情報伝達の方法が増えた現代ではいろいろなことを知る機会も多い。思慮深く生きられるようになり、善悪の基準もかなり高いところにあって、それぞれが意義深い人生を楽しんでいるはず▼それにしては、非常識な人間が多いと思いませんか。誰だって最終的には自分の基準で行動しているけれど、それは社会のルールに則った上での話。それがわからないというのは、情報収集能力に問題があった。世の中をよく見ていないということだろう▼特に若い時の過ごし方に問題があるのではと常々思う。「十五にして学に志し、四十にして惑わず、六十にして耳順う」は論語だが、「学」は机上の勉強だけではないぞと若者たちに言いたい。情報収集も「学」の内▼若いときには鋭い感覚で情報をかき集め、その中から本当に大切なものを選択し、その部分について研鑽を重ねて晩年は人生を落ちついて過ごすという生き方をしたいと願っていたが、六十を過ぎてなお情報収集に余念がない。時間配分を間違えたか。今生は時間が足りなくなったが、つまらない生き方をするより良いかと納得。 (寮)