鬼面仏心
2022年12月20日号
■食べきれない菓子
「幸せになりたい」という会話を耳にした。何をもって幸せなのかと考えた。昔、ある芸人が「生きているだけで丸儲け」と話していた。人は生きているだけで幸せかもしれない。もちろん辛いこと、嫌なこと、悲しいこと、乗り越えなくてはならない試練がある。でも社会が私を助け、食べるものも寝る場所も与えてくれる。人は1人で生きられないから▼年末が近くなり、友人から教わった片付けゲームを始めた。毎日、日付の数だけモノを手放していくゲームで、31日あれば最終的にその月で496個手放せる計算になるが、とりあえず1日1個手放していくことに。いざ始めると想定以上に手放せるモノがあった。いつか捨てようと思っていた雑誌。まだ着られると思って全く着ない服などなど。手に入れたときにはわくわくしたり、嬉しかったモノばかり。飽きたらポイ。人間って勝手だなと思った▼年齢とともに必要なモノが変わるのは仕方がない。だけれど、昔より欲しいモノが少なくなり、それでも満ち足りていることも知る。何より自分自身を大切に思うようにもなった。少欲知足。若い頃には気づかなかった価値観だ▼ただし、足るを知り、満ちたりていることに気づくことが幸せの本質ではない。足るを知り、生かされている自分に気づくことが幸せだと思った。食べきれないほどのお菓子を隠しているのは内緒。(福)
2022年12月1日号
■いのちを伝える
日蓮宗の布教方針は「いのちに合掌」だ。7年前、小学校からいのちをテーマに講演依頼がきた。救急救命士、医師、そして僧侶。さまざまな職業から違った視点で「いのち」を語ってもらうという学校側の説明があった▼はじめに生徒から「死んだ人を担当する人が、なぜ生きている僕らに話しに来たの?」という質問がきた。講演は大人相手より純粋な子ども対象の方が難しい。この日は給食前の「いただきます」には「あなたのいのちをいただきます」という食べ物への感謝があるという話をしたが、いまひとつの反応だったことを反省した▼今年改めて小中学校で講演する機会に恵まれた。コロナ差別がメインテーマだが、いのちの尊さを本当に痛感するのは、生きるか死ぬかという時だ。だから「生死」をしっかり伝えなければと決めた▼生老病死をサブテーマにし、生まれてくること、老いること、病むこと、死ぬこと、すべてがいのちの現れだということや、久遠の仏さまを念頭に死んでも終わらない「いのち」の話をした。時空を広げて環境問題までもが、いのちの連環だと説明した▼講演後、「私のいのちの中に、みんなのいのちが生きていることに気づいた」という感想文をもらった。周りの人への感謝はあっても目の前から消えてしまったものへ感謝することはあまりないかもしれない。久遠のいのちを伝えたい。(雅)