鬼面仏心
2014年4月20日号
ある学校でクラス委員を決めるとき
ある学校でクラス委員を決めるとき、現職委員六人が、受験勉強に差し障りがあっては困るから、今度は委員になりたくないと考えた。そこで六人が陰でこっそり示し合わせて別の候補者を推薦したところ、計算通りになった。ところがそれに気付いた人が、これは陰謀だと発言したため、大騒ぎになった▼選挙ともなれば、それぞれ作戦を立てるのは当然だ。それをたった一言「陰謀」という言葉が、冷静に話し合われるべき議論の場を、糾弾の修羅場としてしまったのである。言葉の持つ大きな力を思い知る▼公正を期すべき裁判の中にも冤罪とされ、今見れば首をかしげたくなるような「証拠」が挙げられていることがある。そこには事実をゆがめる言葉の力があり、あるいは大衆に迎合し真実を正面から見ようとしない一部のマスコミなど、いずれも言葉の力の誤用というものが見られる▼正しいものは正しい、間違ったものは間違いだと言わず人の心を迷わせることは、言葉の力の誤った使い方だ。法華経の弘布を志された宗祖の思いも、まさにここにあった。ご自身、讒訴され冤罪に問われ、ご法難に値われても、それよりも正法がゆがめられ邪法がはびこることのほうが重大事だ、仏の真実の教えを身を以て説くことこそがご自身の使命だとされたのである▼何ものにも惑わされない正しい心と眼をもって、宗祖のあとに続きたい。 (直)
2014年4月10日号
ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね
「ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね。そうよ、かあさんもながいのよ」。童謡「ぞうさん」の歌詞である。微笑ましい母子の歌と捉えられるが、詩人の故吉野弘さんは「〈おはながながいのね〉は、象の鼻が長すぎることをいくらかからかった者のいじわると読めないこともない」と解釈するが、「そういう意地悪すら〈そうよ、かあさんもながいのよ〉と、見事に肩透かしを食わせるのである」という。長い鼻はかあさんと同じだと、誇らしげにその悪意を消し去った小象の見事さである▼最近気になる出来事が2つあった。東京の新大久保などでのヘイトスピーチ(憎悪表現)とサッカーの浦和レッズ差別横断幕問題である。街中で外国人に対して「殺せ」「出ていけ」などと口汚く罵る。「日本人以外お断り」と英文で書かれた横断幕を入口に掲げる。どちらも、暗く嫌な気分になる。その人自身も、自分の心の荒みなど気づかないのであろう▼「憎んでもやはり苦しい。憎まなくても苦しい」(NHK〈ごちそうさん〉)。真珠湾攻撃で戦死した息子を持つGHQ幹部の言葉だ。争いではどちらも被害者といえる。されたからやり返すのでは、終わりがみえず、共に手を取り合うこともできない▼お祖師様は法華経を謗るものだけは決してお許しにならなかったが、他人の痛みをご自身の痛みと受け止められ、人を隔てることのないお方だった。(汲)
2014年4月1日号
いよいよ桜の季節が始まった。
いよいよ桜の季節が始まった。仕事での出張が多いので桜がちょうど見頃という時期に家にいられるとは限らない。一度も桜を見ないまま春が終わった年もある。寄住している寺の境内の緋寒桜は3月の声を聞くとともにほころび始めたから、とりあえず今年はすでに「桜」を愛でたことにはなる▼桜の散りゆく様を人生になぞらえるというのも大方の日本人の好むところだ。その散り際を武士の人生にたとえることも多い。同じことを長く続けることをあまり好まなかったようにもみえるが、長く続かないのが常という摂理の中で身についた価値観なのかもしれない▼清少納言が紫式部を指して女性は早くみまかった方がよいとののしったとも伝えられる。当時の平均寿命は30歳程度だったというから、その短い人生の中でどう花を咲かせるかに重点が置かれ、いかにして長く咲き続けるかなど考えもしなかったようだ▼時は流れ、日本では百歳以上の高齢者が5万人という時代になった。人生の花盛りは一度や二度ではなくなり、その年齢に合った咲き方ができるようになった。桜にたとえるなら薄緑色の大島桜や、五月頃から咲き出す八重桜もソメイヨシノに負けていない。それらが葉桜に移り行く様も見事だ。河津桜は、まだ寒い時期から先頭を切って勇ましい。人生もその時々に様々な花を咲かせて生きたいものだ。 (寮)