鬼面仏心
2015年8月20日号
突然降り出した激しい雨。
突然降り出した激しい雨。外の景色を一瞬映し出す稲光。大音響を振りまくカミナリ。幼い孫たちに囲まれた、にぎやかな夕食の場は不安に満ちた重い沈黙に支配されていった。そして突然、真っ暗になった。停電である▼大騒ぎの中で想い出したのは30年前、初めてのインド旅行のことだ。度々停電に遭った。一流ホテルでもエレベーターが突然停まり、真っ暗闇の中で、ただ電気の復旧を祈るばかり。このまま朝まで動かなかったらどうなるのだろう。もし落下するようなことになったら……。真の闇の中で、恐怖は限りなくふくれあがっていった▼現代の日本では、夜でも明るいというのが当たり前だ。しかしこの状態が未来永劫続くのかと問えば、イエスと即答はできない▼地球規模での異常が見られる昨今、自然災害がもたらす私たちの将来は単純に見通せるものではない。それに加えて戦争など人の手による災害も看過できない。今のままでは、電気の供給もままならぬ暗黒社会で、希望の灯火をただ待ち続けるという日が来ないとは限らないのである▼考えれば電気に依存する世の中など、まだ始まって間もないものだ。今の私たちにとっての当たり前は、少し前までは有りそうもない=有難いものだったのである。この当たり前を有難いと思い次の世に伝えていくという心を忘れては、私たちに明るい未来は来ないと言いたい。(直)
2015年8月10日号
「泣いた赤鬼」という浜田廣介の童話がある。
「泣いた赤鬼」という浜田廣介の童話がある。村人と仲良くなるため、「お菓子もあります、お茶も沸かしてあります」と看板を立てた。念願が叶った赤鬼だが、赤鬼のお茶とお菓子のもてなしは、自ら悪役となり犠牲となった親友青鬼を失うという悲しい結果となる▼「お茶が入ったよ」という言葉は、人に恩を着せないすばらしい言い方だという(言語学者金田一晴彦)。「私が入れた」のではないから抵抗なく、自然にその言葉が心に届く。相手の懐に入る言葉が、共にあるというメッセージとなり、心の垣根を取り払うのだろう。お茶を振舞うのにも違いがあるようだ▼「古池や蛙飛び込む水の音」(芭蕉)の句は、蛙が水に飛び込んだ音を聞いた後に、古池を思い浮かべた句だ。現実の音をきっかけとして心にある世界(古池)が開けた句だという(俳人長谷川櫂)▼「ここに1幅の掛軸がある。柳の下の水面に水しぶきが描かれている。これは芭蕉の『古池や』の句の絵だよ。芭蕉は水の音しか聞いておらず、蛙を実際には見ていない。とすれば蛙も芭蕉の心の世界のものとなる。己の心をこの水しぶきの中に飛び込ませたのだろう。『一心欲見仏、不自惜身命』はこの心だろうな」とは大学の恩師の教えである▼「自分が」の「我」を捨て、み仏の懐に飛び込んだ時に見える世界をぜひに見てみたい。まずは身近な妻の懐から入ってみよう。「お茶が入ったよ」。(汲)
2015年8月1日号
還暦を迎えてから合唱を始めた。
還暦を迎えてから合唱を始めた。秋になると全国でベートーベンの第九のレッスンが始まったというニュースを毎年のように見ていて、一度は歌ってみたいと考えていたところ、合唱の指導者からお誘いをいただいたからだ。四分音符と八分音符の違いが分かる程度の素人に歌えるものか不安だったが、ドイツ語の発音に苦労しながらもなんとか歌えた▼それから7年間、様々な演奏会に出演させていただいている。今月も静岡交響楽団の定期演奏会でモーツアルトの「レクイエム」を歌う。さすがに大曲で練習は昨年の9月から始まっていた。ただ、キリスト教の聖書に基づく曲なので、イエスキリストだのアーメンだのという歌詞が数多く出てくる。正直なところ抵抗があったが、指導者の言葉で納得した。曰く「ステージの上ではキリスト教徒を振る舞えば良い。刑事ドラマに出てくる悪役が実生活では悪人ではないように」▼言われてハッとした。僧侶として生きている私自身、衣を纏ったときと脱いだときの違いがありはしないだろうか。法要の時だけ「らしく振る舞って」いるだけではないのか。荘厳な法要は人々の心に訴えるものが大きいが、私たちの所作は法要というステージの上だけではいけないのだと教えられた思いだ。どこで何をしていても僧侶としての振る舞いが必要なのだった。むしろ私服の時こそ要注意だろう。(寮)