鬼面仏心
2017年6月20日号
外出する前というのは慌ただしいものだが、
外出する前というのは慌ただしいものだが、その日は特に忙しかった。出掛けに電話がかかってきたり、車のカギが見当たらなかったりと、気忙しい中での外出だった▼大事な用件で人に会わなくてはならない。遅れてはいけない、そんな思いで車に飛び乗り一気にエンジンをふかして走り出した。途中で靴が気になった。日頃履き慣れていない靴のせいか、左右の足に何となく違和感があった。しかしさほど気になるものでもなかったので、そのうち靴のことなど忘れて、大事な用件を済ませて家に帰ってきた▼何とかうまく片付いたという安堵感に浸りながら、さて、靴を靴箱にしまう段になって気がついた。右と左、全く別の靴だったのだ。どちらも黒いがデザインは違う。急いでいたため間違えたのである。そう言えば、お辞儀を交わしたときの相手の様子が変だった。いやに長く頭を下げていた。思い当たって顔を赤くした▼過ち、錯覚というものは誰にもある。ただ、世の中には当人が顔を赤らめるだけでは済まない過ちもある。気が急いていたとはいえ、靴を取り違えるほど頭に血が上った状態でハンドルを握り、よくも事故を起こさなかったことだと冷や汗が出る▼正しくものを見るというのは仏教の基本である。国であれ会社であれ個人の人生であれ、ハンドルを握るものは冷静に、ものの道理をしっかり見て進むべきである。(直)
2017年6月1日号
ラオスから帰国すると、境内に並べられた鉢の蓮が
ラオスから帰国すると、境内に並べられた鉢の蓮が小さな芽を出していた。この蓮は10年ほど前から毎年いただいているものだ▼蓮は、その高貴ともいえる華の姿を誰もが知っているのだが、それが泥水の中に咲いていることの意味を気にする人は少ないようだ。この泥こそが蓮にとっては重要な栄養らしい。清水の中で蓮は育たないそうだ。言われて改めて「不染世間法如蓮華在水」を思い起こした。蓮が泥水を栄養として気高く咲く姿を、四苦八苦の中で生きなければならない人間の生き方に譬えて説かれた経文だが、口には唱えても実践していないなと、反省させられることが多い▼蓮と言えば、37年前、プノンペン近郊の虐殺現場で、累々たる白骨の近くにあった沼地で場違いのように咲いていた清らかな蓮が今も目に浮かぶ。その泥水以上に過酷な環境の中で生き抜いて来た人びとがいたことは驚きだった。どんな思いで日々を過ごしていたのだろうかと、今でも考えてしまう▼そのとき慰霊法要の導師を務めていただいた玉川覺祥日薩師(鎌倉市本山妙本寺貫首)が4月遷化された。師は全日本仏教青年会を率いてカンボジア難民キャンプでの救援活動を推し進められた先駆者の1人である。師による法華経のまさに色読とも言うべき国際協力活動が今、インドシナの国々で大きな成果という華を咲かせている。増円妙道を祈念せずにはいられない。(寮)