鬼面仏心
2022年7月20日号
■職業は菩薩
少子高齢化のためか、現行60歳の定年が2025年から65歳に義務化されるという。本人の意志や能力に関係なく、その年齢になるとやってくる定年。ホッとする人、残念に思う人。いろいろだと思う▼ちなみに我々僧侶には定年がない。住職という立場を辞めることはできても死ぬまで、いや死んだ後もお坊さんは教化活動をすることになっている。そんな私たちから見ると定年後の人生を悠々自適に生きている人が羨ましくも見える▼しかし仕事のない人生が、本当に幸せなのかと疑問に思うようになった。現職時代、イキイキ・バリバリ仕事をしていた人。定年後も数年は楽しそうに走り回っていたが、突然生気を失い、老いてしまう人を何人か見てきた。仕事という生きがいを失ったためだと思う▼仕事には定年がある。しかし人生には定年はない。人は生きている限り、誰かのため、何かのために働くことが菩薩である私たちなのだと法華経は説く▼人生100年時代といわれる昨今。定年後の長い人生は、もはや「余生」ではない。大切な「本生」だ。その本生をいかに生きるかに人としての真価がかかっている。定年後を自分だけの楽しみに生きるのではなく、どんな小さなことでもよい。誰かのため、何かのために生きる。そんな菩薩としての生き方の中に、実は自分の幸せがあるのではないだろうか。定年後を大切に。(義)
2022年7月1日号
■渡る世間を…
役場の人権課から小中学校を巡回する人権講演の依頼があった。この講演は平成30年に始まり、初回は障がい者の立場でシンガーソングライターが、次は外国人の視点で大学教授が日本人との認識の違いをテーマにした。私は「コロナ・差別・気づき」について子どもたちに語りかけようと思っている▼ことの発端は1年前に地元の高校生と共同制作した人権啓発ポスターだった。コロナ禍で失われたものは何だったか。地域社会の崩壊、「絆」という言葉が浮上し、それを分断していくコロナ。それをどう結び直していくのかを一緒に考えた。「コロナ大逆転物語」のコピーは高校生が考えた。次は小中学生に…ということになったのだ▼引き受けるにあたり、僧服で講演させてもらうようにお願いした。法華経の中の常不軽菩薩に通じる詩を紹介するからだ。「ぼくは祈る ぼくに意地悪する人が 自分の中の優しさに気づきますように ぼくは祈る その人のしあわせのために」。いじめを受けている少年が作った詩だ。仲良しの友のために祈ることはできる。いじめを仕掛ける人を祈るのは難しい。その人の気づきを祈ることができたとしても、幸せまで祈ることはさらに難しい▼渡る世間は鬼ばかりだと思った時、自分も鬼になっているかもしれない。自分含め渡る世間を仏ばかりにすることが日蓮宗徒の役割だ。(雅)