鬼面仏心
2015年2月20日号
『一里塚』。広辞苑は、
『一里塚』。広辞苑は、「街道の両側に一里ごとに土を盛り、里程の目標とした塚」とし、誹風柳多留を引いて「くたびれたやつが見つける一里塚」と添えている▼身延七面山を登るときなど、長い道程を歩く身になると、この先がどうなっているのか、後どのくらい歩かなくてはならないのかなどと先行きが気にかかる。そんな時頼りになるのが、町石と呼ばれる道程標である▼里標石、里程標などとも言い表され、またマイルストーンと片仮名で語る人もいる。意味も単なる地理上の標識を言うだけではなく、意識あるいは生き方の問題として、中間目標という意味で使う場合がある。還暦の次は古希を目指す、などというのも里程標を意識しているものだ▼個人の生き方だけでなく、組織の運営にしても同様で、先行きの目標を定めるだけでは中々到達できない。いかに素晴らしくても、遥かに遠い目標ではやがてくたびれ萎え果ててしまう。そこで取りあえず達成すべき中間目標を身近に設定し、それを順に通過していけば中ダレを防ぎ、中間目標達成の度に更にやる気が起こってくる▼但し町石は記念碑ではない。ここまで来たさあお祝いだ、ではだめだ。町石は過ぎ去りし後ろを祝うためのものではない。前に向かって進むためのものだ。最終目標をどこに置くか。それを再確認するのが節目の祝い、マイルストーンの役割だと言いたい。(直)
2015年2月10日号
子供のころ、親に叱られるのを承知でいたずらを
子供のころ、親に叱られるのを承知でいたずらをしたり、言うことを聞かずにいてこっぴどく怒られた記憶はどなたにもあろう。誰しも叱られるのは嫌なものだが、思い返して懐かしい思い出として残ることもある。が、逆の場合には、本人しか知りえない辛いものとなる。大人になってからも▼同僚の面前で上司から「小学生が書くような文章だ」などとた度々罵倒されたり、無視をされたりして、自ら悲しい結末を選択した事件が神奈川県で起きた。どこかに逃げ道を作ってやらないと立つ瀬がないではないか▼作家の井上ひさしさんは「ふふふ」(講談社文庫)に逆の場合の実体験を載せている。少年時代に辞書を万引きして本屋のおばさんに捕まった。万引きをする者は罪の意識が薄いという。少年もそうだったのか。おばさんは「これを売ったら百円のもうけ。坊やにもっていかれたら、5百円の損。その5百円をかせぐには同じ本を5冊売らなければならない。うちは6人家族だから、こういう本をひと月に百冊も2百冊も売らなければならない。坊やのような人が30人もいてごらん。6人は餓死してしまう。坊やのやったことは人殺しに近いんだよ」と言って少年に薪割りをさせた。それが終わるとおばさんは少年に辞書を渡して「代金は薪割りの手間賃から差っ引いておくよ」。少年は欲しいものは働いて買うことを学んだ。おばさんの粋な叱り方、説教に脱帽(汲)
2015年2月1日号
本堂を建て替える際、法要だけでなく多目的に使えるものに
本堂を建て替える際、法要だけでなく多目的に使えるものにしたいと考えた。柱のない空間を大きく取り、全て椅子席にしてちよっとした音楽用のホール風にした▼そこにはチェンバロとピアノが常設され、各方面の方から本堂を使いたいという要望が増えている。最近ではクラシックからジャズ、民族音楽など様々なジャンルのコンサート、日本舞踊の発表会などが開催されている▼有り難いのは、檀信徒や近隣の方々にご理解をいただいているのみならず、利用した若者達がインターネット上で寺そのものを紹介してくれることだ。しかし「都会にあって静かな本堂」は良いが、若者達のストレートな表現には戸惑うこともある。「乗りの良い明るいお坊さん」「気さくなお坊さん」▼ちょっと軽すぎないかと不満にもなるが、逆より良い。インターネット上で批判の対象になったら収拾がつかない。寺は、地域社会のためにあるべきだという永年の持論を実践してきて良かった▼今後は、庫裏の空いている部屋を使ってオーケストラの練習をしたいという話や、プロの交響楽団による「音楽葬」などという話題まで出てきている。持ち前
の「乗りの良さ」でなんでもやってみようと思う▼生活の真ん中にあって、地域の歴史をも育んできたそれぞれの寺院。「ここにお寺があって良かった」と近隣の人々に思っていただけるようになりたい。(寮)