鬼面仏心
2024年9月10日号
■選択と活力
人はさまざまな場面で、楽しんだり悩みながら選択をして生きている。身近なところでは今日の昼ご飯は何にしようかという選択。カレーにするか蕎麦にするか。そんな小さな選択もあれば、なにを指針に生きるかという大きな選択までいろいろだ▼そんな人間の「選択」のメカニズムについて書かれたコロンビア大学のシーナ・アイエンガーさんの『選択の科学』(文藝春秋)を読んだ。同書によると、人間は選択という決定権を行使することで、充実感や生きる気力を得ているのだという。選択を本能的に欲するのは、人間だけでなく他の動物たちにもいえる。選択肢の少ない動物園の動物は、選択肢の多い野生の動物より寿命が短いというのは意外だった。なるほど選択とは生きる活力につながっているのか▼私たち日蓮宗徒は法華経を信奉し、日々お題目を唱えるという選択をした。考えてみれば法華経は生きる活力を涵養する教えであり、選ぶべくして選択されたともいえる▼この選択は、これをもって終着点とするのではない。その選択の先には法華経の教えに基づきどう生きるかという次の選択がある。すべての「いのち」と「いのち」がつながりあい、支え合って生きていることを知ること。そしてすべての「いのち」を敬って、感謝の合掌を捧げていこう。次は「行動としての選択」だ。人生は選択の連続である。(友)
2024年9月1日号
■「必要悪」は不必要
広島市の平和記念式典と長崎市の平和祈念式典におけるイスラエルの駐日大使への対応が分かれたことにはそれぞれに意義があるだろう▼長崎市は「平穏かつ厳粛な雰囲気のもとで式典を円滑に実施したい」と政治的判断ではないと強調しているが、招待しないことで「無実の人たちを巻き込む武力行為」に「No」を突きつけたように見える。(もちろん参列することで「平和」や「いのち」について考えてもらうことも大切だ)▼これを受け、長崎市の式典に原爆を落とした当事者である米国が参列しなかった。イスラエルは被侵略国であり、ロシアと同等と扱うべきではない、というのが理由だ。イスラエルが一方的にガザ地区の多くの一般市民を巻き込んでいるのは、攻撃された側だから正当な行為だといわんとしているのか▼米国人のなかには、日本への原爆投下は太平洋戦争、第2次世界大戦を終わらせるための「必要悪」だったと考えている人もいるという。それを言い出したら、戦争自体が最終的に平和をもたらすための「必要悪」になる。それは一部の為政者や指導者の「勝手な言い分」で、それを許すと彼らはいとも簡単に戦争を始めてしまう▼戦争も核兵器も「絶対悪」だ。許されるべきものではない。そしてもちろん「必要悪」も頑として否定しなくてはならない。人を傷つけてまで必要なものはない。(緑)