鬼面仏心
2025年9月10日号
■但行礼拝の稽古
「ながーい、おつきあい」をキャッチコピーとする某地方銀行のCMが流れた。「相合傘濡れてるほうが惚れている」、何気ない行動にその人の隠せない心が現れるものだ。打算計算ばかりの我が身に重ねた。とはいえそう簡単に立派な心になれないのも人の性。だからこそ先人はまず形から教えたのだろう▼日本文化に根差す「道」とつくものは大抵「形」から入る。柔道ならば受け身や礼。茶道は帛紗捌きに足の運び。形が心を作ると考えるからだ。師から教わった形をひたすら繰り返す。これを稽古という。稽古を重ねるうち身体が形を覚える。無意識に振る舞えるようになったとき心は自然と作られる▼数年前から自坊の本堂を椅子席に変えた。長時間の正座から解放され好評だったが、1つの形が激減した。額を地に着け伏し拝む「伏拝」という所作である。仏祖三宝に最上の敬意を表す「恭敬至極の相」とされ、仏道修行者の心が形となった美しい姿。また信仰心を育む上でも大事な所作といえる▼日蓮宗の「いのちに合掌」とは言葉だけのキャッチコピーではないはずだ。しかし一朝一夕で身につくものでもない。だから私は椅子席に変わっても毎朝夕、仏前に額ずき「伏拝」を日課としている。曲がった心も不思議と整う。みなさんもぜひ但行礼拝の稽古を。正しい「形」は近くの師に尋ねて欲しい。(子)

2025年9月1日号
■迷路の出口は?
世界各地で今もって絶えることのない紛争。まるで出口のない迷路に立たされているような不安を感じる。迷路といえば熱暑の中で東洋一の規模と謳われていた巨大迷路に、息子たちを連れて挑んだことを思い出す▼所定時間内にゴールすれば、賞品がもらえる。張り切って入ったものの、炎暑の中、板壁に囲われた道を行きつ戻りつするうちに疲れ果てて次男がぐずり、やむなく次男を連れて妻は隠し扉から出してもらった▼長男と私は果敢に歩いた。この壁の向こう側に出られればいいのにと思っていると、同じことを考えたのか若いグループが壁に手をかけてよじ登り始めた。すると監視台から「ズルはいけませんよ」と注意の放送が飛んできた▼ズルをすることなく、黙々とひたすら汗を流して歩き続けたが、気力が失せていく。もうだめだと思った時、有り難いことに監視台から「そこのお父さん、その角を右に、次は左」などとスピーカーから指示の声が聞こえてきた▼仏から見た衆生は、さながら迷路の中で右往左往する私たち父子のようなものではないだろうか。同じ所で何度も迷う私たち。ズルしたり疲れ果てている私たちを、仏は時に叱り時に励まして人生のゴールに導いて下さる。過去に何度も経験したはずの同じ過ち、あの悲惨な戦争を今も繰り返す私たちを、仏はどんな思いで見ていらっしゃることか。(直)




















