鬼面仏心
2025年1月20日号
■仏さまの眼
正月くらいは明るい話題をと思うのだが、頭に浮かぶのは災害や戦争で苦しむ人びと。そして欲にまみれた愚かな人間の姿ばかり。「娑婆」の現実に圧倒される▼こんな世の中なのに、なぜお釈迦さまは法華経で「我が此の土は安穏にして天人常に充満」する「浄土」と説かれたのか。また自己チュウでどうしようもない人間を、なぜ「その中の衆生は悉くこれ我が子なり」と説かれたのか。そうは思えない現実に、内心疑問を感じるのは私だけではないと思う▼日蓮聖人も用いた「石の中の火・木中の花」という言葉。石の中の火、枯れ木の中の春に咲く花。それは「凡眼」には見えない。見えないが確かに存在する。「娑婆」を忍土や穢土と思い、人間は救いようのない愚かな生きものと思うのは、ものごとや人間を「凡眼」で見ているから。「娑婆」に「浄土」を、欲まみれの人間に「仏の子」を見たお釈迦さま。それは世界や人間を「仏眼」で見たからでは▼たしかに問題だらけの世の中。その「娑婆」を「浄土」に、すべての人間を「仏の子」と見る「仏眼」を持たなくてはと思う。そして「娑婆」を「浄土」に変える「地涌の菩薩」として生きなくてはと▼「法華経は人生の応援歌」だという。お釈迦さまの応援を背に、「娑婆」の現実にたじろがず、泥に咲く蓮華のように「地涌の菩薩」として生きなくては思うこのごろだ。(義)




















