鬼面仏心
2017年8月20日号
境内を歩いていたアライグマの子どもを
境内を歩いていたアライグマの子どもを2匹捕獲した。お堂を荒らすやっかいな動物だ。アライグマに限らずイノシシやシカなど、昔は山の奥深くにいたものが里へ出てきて、田畑や境内を荒らすようになってきた▼動物ばかりか植物までが、私たちの生活環境を荒らしているのが現状だ。広島や最近では熊本の土砂災害などはスギの植林地で発生している。第二次大戦後の森林整備政策の不備を指摘する専門家もいる▼この先私たちの生活空間は一体どうなっていくのだろうか。山は崩れ、今まで見たこともなかった生物に脅かされるのかと思うと不安がたかまるばかりだ▼しかし考えてみれば、アライグマは遠い国から誰かが運んできたものだ。それがやがて飼い主に捨てられ野山に住み着いたのである。スギにしても適した条件のもとに根を下ろし適確に育てられたものは決して悪いものではない。我々人間こそが環境を破壊した張本人なのである▼ならば良い環境を造るのも我々の役目ではないか。過去を教訓にどうすればよいのか、しっかりと先行きを見定めねばならない▼これは信仰の世界も同様だ。我が宗門の目指す「浄仏国土」とはどのような世界なのか、単なる合い言葉ではなくこれを具体的に明示し、何をどうすればよいのか実現のための道程を説き示すべきではないか。今まさにその時が来ていると認識すべきである。(直)
2017年8月10日号
言うまいと思えど今日の暑さかな。
言うまいと思えど今日の暑さかな。つい口に出てしまうほどに、暑い日が続いている▼平成5年まで19年間続けて「広島平和音楽祭」が、毎年8月に開催されてきた。その1回目が昭和49年8月9日に行ほどわれ、美空ひばりは広島原爆投下について作られた曲、「一本の鉛筆」を披露した▼ひばりは、父親を戦地に召集された後の母親の苦労をそばで見ながら育った。自身横浜大空襲を体験したことも、平和音楽祭出演を快諾した一因だったのだろう。リハーサルでディレクターがひばりを冷房付きの部屋に案内しようとしたが、「原爆被害者の人たちはもっと熱かったでしょうね」と言って、ずっと猛暑の中、ステージの傍らにいた▼愛は想像力だという。「相手をわが身に置き換える」といっても、いざその場になると如何に困難かがわかる。が、暑さに耐えかねて冷房付きの部屋へ駆け込むようでは、その歌声が聞く人の魂を揺さぶることもあるまい。ひばりの歌が心にしみるのは、日々に両親や家族の供養にお題目を唱え、自らの中にも育まれた「仏の心」が歌の根底にあったからこそなのだろう。相手への無条件の慈愛によって、真に心に届くのだ▼聞き手は敏感に語り手の心を感じ取る。口先だけなのか、真の心からなのかを▼今年も8月6日、9日の慰霊、祈りの日を終え、15日を迎える。真心からのお題目を唱えてその日を迎えたい。(汲)
2017年8月1日号
お盆の季節がやってきた。7月盆は雨に降られ、
お盆の季節がやってきた。7月盆は雨に降られ、8月盆は暑さと戦いながらの棚経になる。昨今の異常とも言える猛暑の中、僧侶各位にはくれぐれもご自愛いただき、檀信徒のご先祖供養をお勤めいただきたい▼棚経といえば恥ずかしい思い出がある。大学生になるまで自我偈すら読めなかった小生は、池上学寮で読経をたたき込まれた。そのかいあって初めてお盆の棚経に回ることになった。自転車で市内を走り回るのも苦痛だったが、最も神経を使ったのが回向文だった。学寮では棚経の回向まで教えてくれていなかったからだ▼師僧が簡単な回向文を書いてくれ、それを経本の最後に挟み込んで出かけたのだが、あるお宅で、汗を流しながら読経する小生を見かねたお年寄りが、扇風機をすぐ近くまで持ってきてくれた。さわやかな涼風に一息となったまでは良かったのだが、挟み込んでおいた回向文が見事に吹き飛ばされてしまったのだ。木鉦をたたいていたから立ち上がることもできず、回向文を唱える時が来てしまった。どのように対応したのか覚えていないのは、恥ずかしくて記憶から消してしまったからかもしれない。50年前の夏の出来事だ▼近くの寺の住職は、自我偈を読むときでも経本を開いている。彼も、若いときの失敗から学んだのだそうだ。経典を諳んじて唱える僧侶と、一文一句を確認しながら読む僧侶、どちらがありがたく見えるだろうか、などと考えながら、今年もお盆を迎えた。(寮)