鬼面仏心
2015年10月20日号
新しいもの好きの祖父が、新開発の超小型補聴器を
新しいもの好きの祖父が、新開発の超小型補聴器を買ってきた。こんな高いものを買ってきて、とグチをこぼす祖母の前で、これでもう不自由なく聞くことができると自慢する▼ところがある日、電話をかけている祖父を見るともなく見ていたところ「○○さんですか。ええっ? なんですって? ちょっと待って下さいよ」突然耳から補聴器を外して話し始めたではないか。文明の利器も単なるアクセサリーに過ぎなかったのか▼半世紀も前のことだ。そんな祖父を見ていた筆者も、齢を重ね、今や補聴器の恩恵にあずかっている。高音が聞こえにくいのだ。若い女性店員さんとか、深刻な顔つきで相談に来られる女性の、つぶやくような小声は特に聴きづらい。よく聞こえる補聴器は本当に助かる▼思うに、聞くということは相手の言葉を通して、その人を理解することだといえよう。社会生活を営む私たち人間は、相互の理解なくしては、人間として生きているとはいえないのではないだろうか。よく聞くことにより、先ず人としてのあり方の第一歩が始まる▼毎日のように報道される残酷非道な事件に接して感じるのは、自己の主張ばかり押し通し他の話を聞かず、他を顧みない人がこの世に増えているということである。そんな、人ともいえない輩にこそ、性能のいい補聴器を付けて、トックリと他人の話を聞かせてやりたいものだ。(直)
2015年10月10日号
「堅法華」とは、何をするにもお題目に結び付け
「堅法華」とは、何をするにもお題目に結び付け、他宗寺院の前で鼻緒が切れても、そこで直しては頭を下げたことになるから、片足で門前を通り抜けて鼻緒をすげたという。江戸時代に隆盛を極めた法華堅気の信者の元を作ったのは「講」の存在だろう▼お祖師さまはお題目こそすべての人を救う教えであるとの結論に至るまでに、一切経(お釈迦様が説かれたすべてのお経)を3度読まれたという。その分量はどのくらいかと調べてみて驚いた。池上本門寺蔵の天海版一切経で、高さ50センチに積んで40畳の部屋がいっぱいになるという。いま私たちが勉強のため読める一切経は日本語に訳された国訳一切経で、文字数は1億200万字である。それを身近なものと比べてみる。24頁ある全国紙の新聞で324000字。この数字を国訳一切経に当てはめると、お祖師さまは900回新聞を隅から隅まで、意味を考えながら読まれたということになる▼この膨大な文字の中から法華経を選びだされお題目の7字をお示しになられた。法華経の69384文字を7で割ると9912文字でおよそ1万となる。江戸時代に、十三日講、身延講などを中心にして盛んに建てられた「1万遍唱題塔」はここに由来する▼いま、もっと「講」の存在を再認識していい。その最少の単位は自分の家庭である。もっともっと「堅法華」と言われるくらいに、家庭でお題目を唱えるようにしたものだ。(汲)
2015年10月1日号
家内が浮かない顔をして帰宅した。
家内が浮かない顔をして帰宅した。自分が卒業した高等学校の制服を着た女子生徒たちの中に親友がいるのをデパートで見つけ「チャコ!」と叫んでしまった▼呼ばれた女子生徒は知らないおばさんに声をかけられさぞ気味が悪かったのだろう。逃げていった。それでようやく40年も昔にその学校を卒業していることに気づいて赤面したと▼師父の後を継いで住職になった寺の年忌法要の後で、参列者の一人から「みっちゃん」と声をかけられたことがある。師父の中学校時代の同級生だった。「みっちゃん」は当時の師父の通称だ。その面影がダブってしまったのだろう。自身が歳をとったことを一瞬、忘れたのだ▼何かの疾患でなければそれもいいなと最近思うようになった。いつまでも若いつもりでいると考えも行動も若々しくなる。若者と同じ話題で酒が飲めるから誘いも絶えない。そんなつきあいの中で仏教の話を聞きたいという若者が多いことを知る。これが同年配だとなかなか説法というスタイルにはならないが、一応人生の先輩として話を聞いてくれる▼年齢や立場を越えて語り合う場は、互いの成長を促す。同業者とのつきあいも楽しいが、若い人たちの中に入っていくのはおもしろい。「お坊さんがお酒を飲んでいいの?」という質問から、日蓮聖人のご生涯や法華経の話に入る。法華経と縁を結ぶ場はどこにでもあるのだ。(寮)