鬼面仏心
2015年6月20日号
読みやすい寺報を長年出している老僧に
読みやすい寺報を長年出している老僧に、その秘訣を聞いたところ、明るい紙面を心がけているとのこと▼暗い話題では読んでもらえないのかと思ったが、そうではない。漢字が多いと、印字面が黒く見えるというのである。つまり、平易な日常用語を使うように心がけている。そうでないと読もうという意欲が消えてしまうのだという▼活字離れといわれて久しい。新聞を見ない若者は多い。災害など有事の時に、状況を把握することが難しいのではないか。第一、社会の様子を知らないで自身と家族を守ることができるのかと問うと、ニュースはネットで見るから問題ないという▼なる程、ケータイやスマホでもニュースは流している。ただ見出しばかりが流れているように思える。それを選んで必要なものを更に詳しく読むのだという。しかしこれでは新聞の大きな紙面を広げて、社会全体を俯瞰するという行為は為しようがない▼そういえば近年は、店に出向いて品を選ぶより、ネットで必要とする物を探して取り寄せる方がずっと早くてしかも安い。ただ、それが社会状況の判断となると、自分の気に入ったものしか見ないということになり、偏見と独断が専行する社会になっていくように思えてならない▼我田引水の誹りを免れないかもしれないが、まず日蓮宗新聞が広く読まれ、誰もが健全な社会把握をできるよう願うものである。 (直)
2015年6月10日号
昔から「食わず嫌い」の人は多い。だが実際食べてみると、
昔から「食わず嫌い」の人は多い。だが実際食べてみると、意外に美味しいことに気付く。思い込みということだろう▼筆者も思い込みで、恥ずかしい思いをしたことは少なくない。「秘湯」をずっと「ひゆ」と読んでいた。ある方から「ひとう」と読むのだと指摘された。どっと汗が噴き出し、笑って誤魔化すので精一杯だった。そのご当人も「小春日和」を春のことだと思い込んでいたというのには救われた▼先日、千葉県本山藻原寺第2世日向上人遠忌報恩事業の一つ、「オラトリオ日蓮聖人」(DVD)を鑑賞した。クラシック音楽は得意ではないと思い込んでいたためか、1年も前に宗門から頂いていたのに、ようやく観たという次第である。観て驚いた。日蓮宗宗立学寮生の行脚隊、立正大学グリークラブ、地元茂原市民の合唱団、茂原交響楽団など、まさに出演者の心がひとつとなった完成度の高いものであった。企画立案に始まり、演奏者、出演者の交渉と決定。パート練習、合同練習を積み重ねての檜舞台であったろうことは想像に難くない。何より賞されるのはその熱意と行動力だ。来る宗祖御降誕八〇〇年を檀信徒とともにどう迎えるか。参考とすべきものがある▼「食わず嫌い」のままではもったいない。是非ご覧になって頂き感動を共有したい。そのうえで衣を作務衣に替え、共に考えたいものだ。ご聖日の朝日はもう見え始めている。(汲)
2015年6月1日号
孫がプロテスタント系の中学校に入学した。
孫がプロテスタント系の中学校に入学した。入学式ならぬ入学礼拝から新しい生活が始まり、今では聖書を読み賛美歌を歌っている。日曜日には近くの教会に行って出席の印をもらってくるようにもいわれており、出かけていった▼志望校を決める段階で承知していたことであり驚きはしないが、宗門の教育機関ではどうだろうか。筆者が立正大学に学んだ当時、さまざまな仏教行事を知らせる掲示が目についた程度で強要もなく、一般学生の参加もなかった▼逆は難しいのだろう。一神教を信じる人たちに他宗教の行事へ参加を促したら信教の自由云々と大問題になるに違いない。改めて仏教の寛容さに感謝する▼臨済宗の若い僧侶が師父の指導で中高等学校をミッションスクールで学んだそうだ。その後で仏教を学び僧侶になったのだが、彼のバランス感覚にはすばらしいものがある。敵対するのではなく、そこから学び取ろうとする姿勢だ▼もっとも、静岡聖光学院の元校長だった故ピエール・ロバート先生は毎月身延山に参詣していた。その聖光学院で生徒たちに講演を依頼されたことがある。僧侶を講師に呼んでいただいた礼を言うと「この学校を卒業して神父になったのは1人だけで、5人が仏教の僧侶になっている」とのことだった▼なかには本宗の師弟も含まれていた。グローバルな価値観での活躍に期待している。 (寮)