鬼面仏心
2019年7月20日号
悟り
高齢者の運転ミスによる悲しい事故が頻発している。自分もその年齢になっているだけに、人ごととは思えない。そして事故のたびに叫ばれる「免許返納!」という非難の矢が、まるで自分に向けられているようで辛い▼交通便利な都会なら車は不要かも知れない。しかし交通の不便な地方では、車は生活、いやそれどころか生命維持の必需品。車がないと病院にも、買い物にも行けない。まさに死活問題なのだ▼現代は車中心の社会。大型店や商店がみな郊外に集中する。そんな時代に車が使えないということは、大変な不便を高齢者に強いることになる。問題の解決を高齢者の免許返納に求めるだけでなく、人中心の地域づくりやシステムづくり、さらに高齢者が安全に運転できる車づくりといった分野の取り組みも重要なのでは▼人は誰でも自分のことは自分が一番よく知っていると思っている。事故を起こした高齢者も、まだまだ自分は大丈夫、と思っていたはず。ということは、自分のことを一番知らないのが自分、ということなのでは▼「悟」は「吾」と「心」を組み合わせた漢字。つまり自分自身を知ることが「悟」だ。自分が高齢者であることを自覚し、細心の注意を払って運転をする。それを「悟り」という。車だけでなく人生の安全運転にも「悟り」は重要。そのためにはしっかりお題目を唱えることだ。(義)
2019年7月10日号
シャープペンシル
物があふれた自室の片づけ中、本棚の隙間から平べったい桐箱を見つけた。子どもの頃からこの箱に大切にしまっていた筆記具たちを、私はすっかり忘れていた▼埃を払い、蓋を開けると、握れないほど短くなったたくさんの鉛筆と、マジックやボールペン。書き癖のついたペン先、軸には細かい擦り傷。中でもエンジ色のシャープペンシルは傷だらけ。30年も昔、小学生が持つには不相応な高級品ながらも父が買ってくれて、嬉しくて、いつも筆箱に持ち歩き、がむしゃらに勉強したっけ。試験ではこのシャーペンがお守りで相棒、中・高・大学生になっても勇気をもらった。あの頃の私は、1本のシャーペンさえも自分の分身のように大切にしていたのだ…▼いつの頃からだろう、雑に物を消費するようになったのは。買い集めた物も、結局使いこなすことなく粗末にし、そしてまた新しいものが欲しくなる無限ループ…▼シャーペンの無数の傷を眺めていたら涙がこぼれてきた。「物を蔑ろにする人は、自分のことも、周りの人をも蔑ろにしがちだ」と、知り合いの僧侶が言っていたが、あんなにも大切にしていたはずの宝物を、なおざりにしていた今の自分に悲しくなった。人に命があるように、物にも命がある。漫然と暮らすうちに見失っていた物の命。どんな類の命であっても、その命への感謝を大切に、共に生きていきたいと思った。(花)
2019年7月1日号
プロになる
茶道の心得がある僧侶が声明指導の時にこんな話をした。「茶道具の取り扱いで道具拝見の時、茶器を畳の上に近づけて持つのは、落としても傷つけないようにという配慮です。丁寧にと心がけていても、気が抜けて落としてしまうことがあります。茶道では、気持ちや精神だけでなく『作法の本来は、かたち、つまり技術だ』と教えます。声明の習礼も、何度もくり返すと気の緩む時があります。身体に根気よく染みこませて下さい。それが、かたちになります」と▼先日、小学生の人権スポーツ教室で似た話を聞いた。5年生が、指導してくれたプロバスケット選手に「プロはなぜ苦しい練習を続けるのですか?」と質問をした。プロは「まず個人練習で自分の技術を磨きます。チーム練習で形をつくります。例えばパスをする時、仲間がそこに必ずくると、身体に覚えさせるまで練習します。プロの場合、パスは仲間に球が渡って初めてパスになります」と答えたのです▼その後、人権擁護委員の私はこう話した「皆さんには、人権を守るプロになってほしいです。人権を守る精神を続けていくことは大切ですが、気が抜ける時があります。信じていた友だちに、体の特徴や方言、苦手なことでからかわれたら悲しいよね。だからね、傷つけない気持ちを体に染み込ませなければならないんだ。人権を守るこんな練習も必要なんだ」と。(雅)