論説

2025年9月1日号

お寺をふれあいの場に

先日、とある商店会の夕涼み会を訪れた。その夕涼み会は、行事としては古いものではないが前身となるものがあり、商店会の歴史は長く、地域とともに歩んできた。当日はあいにくの雨模様。「荒天中止」となっていたので、開催されるのかどうか気になっていたが、開催が決定されたようであった。17時ごろにはそこまでひどい雨ではなかったものの、到着時には長靴を着用するほどの強い雨となっていた。
会場は数年前に完成した、市の複合施設の施設内と駐車場にまたがって設置されていた。いくつか行われる予定であったコンサートは、施設内で開催となっていたので、問題はなさそうだった。駐車場にはテントやキッチンカーが10台以上並び、それらは営業・販売をしていたが、強雨のためにテント入り口に立つことも、さらに購入するための窓を開け続けていることもままならず、大変な状況にあった。
そのような悪天候の下でも多くの客が来て楽しんでいた。本来は駐車場にテーブルと椅子が並べられていて飲食をすることができるのだが、雨の中ではそれはできず、ひさしの下に数台あるテーブルがわずかに雨をしのげる場所となっていた。
40分ほど経つと、雨は小降りになったお陰で来場者は増え、予定通り屋内でのライブが始まり、会場の様子はぐんと祭りらしくにぎやかになった。屋根のないテーブルでの飲食もできるようになった。人びとの話し声も大きくなってきた。そうこうするうちに風雨も収まってきた。
その夕涼み会に参加するのは近隣の住民が多いが、たまたま当地を訪れている人もおり、もちろんだれもかれも知り合いというわけではない。テーブルは数が限られているために相席となることが多く、その場で初めて出会った人同士が世代を問わず話を交わしているのが印象的であった。開催者とも話したことがあるが、そのような意図は特別ないようであった。面識のない人たちが世代を超えて語り合う、それこそがこの夕涼み会が果たす大きな役割なのではないかと私は感じた。心のバリアのようなものを取り払ってくれるような何かがあるのではないだろうか。
それを見ていて気付かされたことは、お寺もそうありたいし、そういう気持ちを持てる場を提供できるとしたら本当に素晴らしいということだ。訪ねて来てくれる人が、話したいことを口にし、僧侶や居合わせた人と語り合い、その中で安心や気付きを得てくれたら何よりである。
ただ夕涼み会は住民にとっては非日常であり、祭りの雰囲気が人びとを集め、ときにつなぎ合わせる。お寺での法事は、非日常だが、来る人は限られるため日常の延長線上にお寺がそういう存在になれればいいだろう。
たまに一般のお寺の境内にも東屋をみかける。現代の住宅では少なくなりつつある軒下もそうだが、東屋は休憩するための場所だ。日本の公園や庭園だけではなく、諸外国でも見かける。あまり深く考えたことはなかったが、東屋の有無により、人の出入りが変わってくるのかもしれない。陽や雨を遮ってくれる東屋はそこにいるだけで、心安らぐ場所になる。また空間が限られているため、たまたま隣り合わせた人と距離が近いので話が弾むかもしれない。
そしてお寺から東屋がよく見えれば、人が来て休んでいることを確認し、僧侶が外に出て話ができるかもしれない。そこから始まって最終的にはお寺全体を東屋のように思ってもらえれば、それがその人たちにとって素敵なことになりえるように思う。   (論説委員・村上慧香)

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2025年7月1日号

『法華経』と龍

干支には龍があり、法華経は龍の経典といわれるほど、序品から難陀龍王、跋難陀龍王、娑伽羅龍王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王と天龍八部衆としての八大龍王が登場する。提婆達多品第12には、娑伽羅龍王の娘である龍女の話が女人成仏として説かれている。
仏閣神社の付近や山の上空の雲、水行の水、お焚き上げの火などの写真を撮影して、檀信徒が「携帯で撮影しました。龍に見えませんか」と、空に浮かぶ白い雲や水や火が何となく龍に見えるような写真を見せに来ることがある。これらの多くの写真はパレイドリアといわれる心理現象で、例えば火星の人面岩などのように、人の顔のように見えたりするケースである。
しかしごく一部だが、誰が見ても龍の顔や胴体や鱗までがある姿が写し出される写真や、異常に巨大な三重瞼の龍の眼の写真が撮影されたりすることもある。また体中に雷をまといながら滝の上からゆっくり降りて、雷を食べながら、再び登っていく白い龍の姿を夫婦で目撃したことを描いた画家もいる。高校2年生の時に道路幅もある巨大な龍の顔を目撃したという人は、周囲の時間が止まり、土手の上で自転車に乗っていた近所の人がペダルに足を乗せたまま動くことができず、怖さと驚きのあまり、髭が人の胴回りもある龍がパクパクと口を開いて何かを語りかけてきているが、その言葉も耳に入らないほどだったと話す人もいる。日蓮聖人の伝記でも元寇の際には、「十界の龍を全て対馬に送り込み巨大な竜巻を起こした」という逸話が残されている。
私たちの大半の知識は〝信頼〟に依るもので、自分の体験から得られるものではない。夢枕に仏神が出て来られて何かを告げられた体験をした人も多い。自分で体験せずとも、こうした体験をされた人の言葉を信じたりするのである。私たちが『法華経』という経典に向き合うときにも、龍の存在は人が思弁的に勝手に想像して作り上げたものでも比喩や寓話でもなく、この次元ではない眼には見えない別の次元に確かに存在し、時折私たちの前に姿を現わしてくれる存在と考えてみる。
すると金銭や利得、名声や名誉地位などを追い求める名聞利養の執着心のぎすぎすした世界観ではなく仏教的な存在論や広い心が養われると思えてならない。
個人的な体験だが、僧籍を取得する前の10代の頃に、餌付けではなく野生の雀と話ができ、手や頭に乗せている女性と知り合った。また一輪挿しにあるうなだれていたチューリップとも対話して、みるみる元気にする姿を目撃したこともある。「このチューリップは私がアパートを引っ越しするので置いていかれると思っていたから、お前も一緒に連れて行く」と伝えたとその人は話した。人は道端の樹木や雑草、意思がないと思われる小石とも対話ができ、感応道交できるのだと教えてもらった。
そもそも、諸仏世尊が世に出現された理由は衆生に仏知見を開かしめ、それを示し悟らしめ、その道に入らしめんとの一大事の因縁であると説かれている。
度量衡で測ることのできない、未だ数値化できない仏教思想に現代科学が追い付いていないのが実情だろう。目に見えない真実の世界にこそ物事の本質があり、その仏知見を日蓮聖人や法華経が解き明かしているのだと考えてもらいたい。
もう一度、法華経、釈迦、多宝、十方の諸仏菩薩、諸天善神などに〝信〟を入れて、お題目を唱えたいものだ。
(論説委員・高野誠鮮)

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2025年6月1日号

「80歳の壁を超えて」―人生百年時代を生きる

総務省の令和6年9月15日の報告によると、我が国の総人口が減少傾向にある一方、65歳以上の高齢者人口は過去最多の3625万人に達し、総人口の29・3%を占める。75歳以上の人口も2076万人となり、超高齢化社会が進行している。
この状況下、高齢者の運動・感覚機能の低下、慢性疾患の増加、免疫力の低下に加え、生活不安、老老介護、独居といった多岐にわたる課題が深刻化している。「高齢化」をいかに受けとめ、どのような心構えで臨むべきか、現代社会の重要な問いといえよう。
今年、喜寿を迎える筆者は、友人から贈られた和田秀樹著『80歳の壁』から多くの示唆を受けた。高齢者専門の精神科医である著者は、80歳を超えた人を明るい希望を持って生きる「幸齢者」と名付け、従来の健康常識に新たな視点を提示している。例えばガン予防のための過度な食事制限や禁酒、禁煙は、すでにガンを抱えている可能性のある幸齢者にとっては必ずしも有効ではなく、むしろストレスを軽減し、気楽に生きる生活が免疫力を高め、ガンの進行を遅らせる可能性があると指摘する。80歳の壁を乗り越えるためには過度な我慢をせず、好きなことに焦点を当てた生き方が重要だと提唱している。
折しも3月に日蓮宗生命倫理研究会主催の「心といのちの講座」が、「健やかな老い」をテーマに開催された。溝口元立正大学名誉教授は、老いの意味や捉え方は時代や文化によって変化し、寿命の長さだけでなく健康寿命、生活の質(QOL)が問われていると指摘。加齢とともに記憶力の衰え、免疫力の低下などの生理的・心理的変化がある一方で、言語性能力は維持され、向上することもあると述べた。さらに、社会貢献活動などへの積極的な参加が、寝たきりや認知症の予防、そして長寿につながることも示唆した。
仏教の視点から「老い」を考察すると、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)の出家の動機は、避けることのできない生老病死の四苦の解決にあった。諸行無常の教えは、老いは人生における必然的な過程であり、自然の摂理としてあるがまま受け入れるべきことを示している。
日蓮聖人の教えからは、『妙法尼御前御返事』(聖寿57歳)には人の寿命は無常であり、老いも若きも定めなき習いであるとし、「されば先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」と若い時から老年まで、人生がいつ終わっても、良き臨終としての悔いの残らない生き方を心がけるべきことを教示されている。また『崇峻天皇御書』(聖寿56歳)には、人として生をうけることは稀有なことであり、「百二十まで持て名をくたし(腐)て死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」と、いたずらに長寿を願うのではなく1日でも意義のある生活を送ることの重要性を強調されている。
日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻られた際に、周囲の人びとはそのご労苦をねぎらい、穏やかな晩年を送ってもらいたいと願ったかもしれない。しかし日蓮聖人は環境の厳しい身延の地に住まわれ、老いてもなお法華経信仰に全身全霊を捧げられたのである。
私たちも日蓮聖人の精神に学び、近年の知見も踏まえながら、加齢による変化を自然なものとして受け入れ、法華経、お題目信仰の中にこそ安穏な人生があると心得るべきである。人生百年時代の今日、与えられた命に感謝し、お題目を唱えて毎日を大切に過ごすことによって、法華経の「更賜寿命」(さらに寿命を賜え)の教えも叶うものといえよう。(論説委員・古河良晧)

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新年のご挨拶。

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