論説
2025年12月1日号
戦後80年を経て、平和の学びを!
およそ2500年前の12月8日は、仏教の開祖、お釈迦さまが菩提樹の下でお悟りを開いた日である。この日、一切の生きとし生けるものの真の救済の道が開かれた。しかし奇しくも昭和16年(1941)のこの日、わが国はハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争の火蓋を切ったのである。今日では、その戦争の悲惨さを忘れず、平和への決意を新たにし、それを次世代に語り継ぐ日でもある。
■危惧される戦争の記憶の風化
10月に発表された石破茂前総理の「戦後80年の所感」には、今日のわが国の平和と繁栄は戦没者をはじめ尊い命と苦難の上に築かれたものであり、戦争を防げなかった背景や当時のさまざまな問題点を指摘していた。さらに戦争の記憶を持つ人びとが少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今、若い世代も含め、国民1人ひとりが先の大戦や平和のありようについて考え、将来に生かしていくことへの期待も述べられている。
総務省の人口推計によれば、現在、日本の人口の88%以上が戦後生まれにあたる。戦争の直接的な体験者が減少していく現状は、歴史の風化に留まらない。戦争の悲惨さが単なる知識や数字としてしか伝わらなくなり、体験者の言葉にならない感情や恐怖、苦痛を肌で感じ、学ぶ機会が失われてしまう。さらに戦争の記憶が薄れると、一部で戦争の美化や英雄視する危険性もはらんでくる。
一方、戦争体験者の語りは戦時下の社会の雰囲気や、「なぜ戦争が起きたのか」という根源的な教訓を学ぶ上で極めて重要である。筆者の寺では、毎年8月6日の広島原爆忌に、地元在住の被爆者に体験談を語っていただいてきたが、数年前から高齢化のために参加がかなわなくなってしまった。この事実は記憶の継承が待ったなしの状況にあることを示している。
■立正安国精神のもとに平和学習の展開を
こうした状況下、今後求められることは戦争体験の記録のデジタルアーカイブ化、映像や書籍、展示などを通じた戦争の歴史や証言を学ぶ取り組みといわれるが、日蓮宗独自の平和についての取り組みはどうあるべきか。
日蓮宗では、毎年8月15日の終戦記念日には千鳥ヶ淵戦没者墓苑で戦没者追善供養並びに世界立正平和祈願法要を営み、特に今年は6月5日にも大本山池上本門寺で終戦80年の法要を営んだ。
もちろん戦没者供養や平和祈願法要は大切だが、さらに戦後80年を機に、日蓮聖人の説かれた『立正安国論』の教えにもとづく平和学習を、宗門挙げて新たに取り組むことを期待したい。日蓮聖人は大地震などの天変地異が続く鎌倉時代に、人びとの救済をめざして『立正安国論』を著わし、世の乱れの根本原因を人びとの誤った思想や行動に求め、正しい教えを確立することによって初めて安国が達成されると説かれた。ここでいう平和とは単に戦争がない状態に留まらず、人びとの身の安全と心の安穏、真に安らぎが得られる穏やかな社会を意味するといえよう。
そのためには立正安国の精神のもとに、先の戦争の教訓を踏まえて環境問題や差別、貧困、いのちの尊厳など、現代社会が抱えるさまざまな問題を「平和を築くための課題」と捉え、深く考える必要がある。さらに体験学習やボランティア活動など、実践の分野にまで広がるならば、それは大きなうねりとなるだろう。
目を転じれば、いまも世界の各地で戦火や紛争が絶えない。戦後80年間、平和な時代を享受してきた私たちに、祖願に適う日蓮宗ならではの平和のための学びと行動が、今こそ求められている。(論説委員・古河良晧)

2025年11月20日号
節目の遠忌と教育事業
鎌倉時代の日蓮聖人(1222~82)が、今日の大田区池上の信徒で、地頭であった池上宗仲氏の邸宅で、61歳のご生涯を閉じられてから、今年で第744遠忌を迎えました。6年後には、ご入滅750年の記念すべき節目を迎えることになります。私たち聖人の門下は、日蓮聖人のご誕生・立教開宗(32歳)・ご入滅の日を聖日として尊び、それぞれの50年を1つの区切りとして、新たなる出発の日として受けとめてきました。
ところで、私はいま、東京都本山堀之内妙法寺第30世の岡田日歸上人(1864~1931)が創立した堀之内学園の運営に、少しく関わりをもっています。そして、令和8年4月28日、学園が創立100周年を迎えることから、日歸上人のご生涯を学ぶべく、その足跡をたずねているところです。
日歸上人が女子教育を目的として「立正高等女学校」の創立を目指して、具体的な準備を開始されたのは、大正15年(1926)4月20日のことです。それは、6年後の昭和6年(1931)が、日蓮聖人第650遠忌の正当で、教育機関の設立を報恩記念事業とするものでした。
日歸上人が、女子教育の重要性を確信されたのは、若き日に、のちに身延山第74世の法主となられた吉川日鑑上人(1827~86)との出会いであり、その信徒である林庄兵衛氏との深い交わりの結果であると推察されます。日鑑上人の下総内山の妙広寺での門下教育(桜花園)は、在家・出家、あるいは男性・女性を区別することなく、しかも、すべての子どもたちの大切な先生、導き手は母親(女性)にある、との大前提に立つものでした。
そこで、日歸上人が明治44年(1911)7月、堀之内妙法寺第29世武見日恕上人の後をうけて、第30世の貫首となったときから、日蓮聖人第650遠忌の記念事業を勘案される過程にあって、堂塔伽藍の整備、あるいは新たなる堂塔の建築があったと拝察されます。
日歸上人は、すでに明治14年(1881)、18歳のとき日蓮聖人第600遠忌に出会っています。身延山は、明治8年(1875)正月の大火災を克服し、日鑑上人をはじめとする諸師の大活躍によって棲神閣(祖師堂)が落慶し、ここにおいて遠忌の大法要が3期に分けて修せられ、全国の檀信徒の参詣がなされています。日歸上人が出家された堀之内法縁においても種々の記念行事が遂行され、妙法寺祖師堂の扁額「感應法閣」の文字は日鑑上人の揮毫ですし、祖師堂銅板屋根の葺替えも、遠忌の記念事業の一環であったと拝察されます。
また日歸上人は、明治時代の宗門の教育機関(大檀林制の中教院、大檀支林)で研鑚され、その校地が品川区大崎へ移り、日蓮宗大学林、日蓮宗大学へと校名が変わるなか、大正7年(1918)12月の「大学令」発布のもと、ついに大正13年5月16日、「立正大学」として創立され、6月15日、創立記念式典が挙行されます。
このとき、日歸上人は日蓮宗を代表する「宗務総監」として、その責務を達成されたのです。
このようにたどって来ますと、堀之内学園創立者の日歸上人の活躍は、まさに八面六臂であったことを知るのです。そして、昭和6年の第650遠忌には、第82世の法主として、3期にわたる大導師をつとめられることになったのです。(論説委員・北川前肇)

2025年11月1日号
全人的医療の善医・四条金吾
全人的医療という言葉がある。
全人的医療とは「病める人の全体を診る医療」のことである。高木兼寛医学博士は「病を診ずして病人を診よ」といい、医学教育の基礎を築いたウイリアム・オスラーは「病いだけでなく病者を診よ」「良き医師は病気を治療し、偉大な医師は病者を治療する」という言葉を残している。これが医療の本来の姿であるはずだが、近年人工知能(AI)が医療の世界に進出して大きな役割を果たすようになってきている現状を見ると、人を乗り越えて「病気の治療に優れている」ことが医療の本質であるかのごとき理解が広まっているのではと危惧させられる。
全人的医療の背景には「病気を治療する」ということだけではない大きな意味が含まれている。すなわち、病者の人格を尊重し、多角的な視点から多くの病態を洞察するという意味である。また全人的医療では、臓器・器官あるいは専門領域を超えて病態を洞察すること、病者の人間性を尊重し、そしてその病態に関わる外的環境要因に細心の注意を払うことが求められる。そしてその基盤には、医療者の病者に関わる慈愛の心がなければならない。
臓器・器官あるいは専門領域を超えた病態、すなわち個人の病態への洞察として求められるのは、病者の感情と精神活動への理解であり、さらには霊的存在としての病者に配慮する医療者としての慈愛の心である。さらに病者を取り巻く環境や社会、文化的背景、歩んできた個人としての歴史、家族の状況などへの理解が必要である。医療の世界への進出が著しい人工知能(AI)技術がこれらをそなえているとは考え難い。
日蓮聖人に「善医」と称された檀越に、鎌倉幕府の北条家に仕える武士の四条金吾がいた。四条金吾が病気治療に関わる時には、常日頃の日蓮聖人の教示による法華経信仰に基づく謗法懴悔・善神守護の祈りの力を根本として、その上で身の病に対しては取り得る最善の対処を行うというのが治病対処の基本であったと思われる。
例えば主君の江馬光時の重病に対して請われて治病に当たった際、髪をつくろわず衣服を整える暇も惜しんで側に仕えて看病に当たり、病状の移り変わりに臨機応変に対応して、施療に当たりなさいとの日蓮聖人のご教示のお手紙が残っている。恐らく生薬の処方や針、灸などの指示を出しただけではなく、その後の経過を観察しながら変化に応じて対処法をこまめに変えて看病に当たったのではないかと推察され、そのことが主君の信頼を勝ち得て領地を賜ることにつながったと思われる。
日蓮聖人が晩年に体調をくずされた際にも、聖人ご自身が「日々の論義、月々の難、両度の流罪に身つかれ、心いたみ候し故にや」とその原因について深く洞察されている内容について理解した上で、これまでの病状の経緯や、身延山の過酷な自然環境や食生活などについて思いをめぐらしながら対処方法を考え、服用すべき生薬、生活上の注意などについて細心の助言をしたのではなかろうか。そのような、病状だけを見て判断するのではなく生活歴や環境全般にまで配慮して治病に向けた助言をしたからこそ、「貴辺の良薬を服して病状が回復した」と述べ、信徒の富木常忍夫人の病に対して「しかも善医あり。中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」と、四条金吾の治療を受けることを勧めるほどであった。四条金吾は、日蓮聖人が称賛するほど、全人的医療を弁えた善医であったのではないかと思う。 (論説委員・柴田寛彦)




















