論説
2025年11月20日号
節目の遠忌と教育事業
鎌倉時代の日蓮聖人(1222~82)が、今日の大田区池上の信徒で、地頭であった池上宗仲氏の邸宅で、61歳のご生涯を閉じられてから、今年で第744遠忌を迎えました。6年後には、ご入滅750年の記念すべき節目を迎えることになります。私たち聖人の門下は、日蓮聖人のご誕生・立教開宗(32歳)・ご入滅の日を聖日として尊び、それぞれの50年を1つの区切りとして、新たなる出発の日として受けとめてきました。
ところで、私はいま、東京都本山堀之内妙法寺第30世の岡田日歸上人(1864~1931)が創立した堀之内学園の運営に、少しく関わりをもっています。そして、令和8年4月28日、学園が創立100周年を迎えることから、日歸上人のご生涯を学ぶべく、その足跡をたずねているところです。
日歸上人が女子教育を目的として「立正高等女学校」の創立を目指して、具体的な準備を開始されたのは、大正15年(1926)4月20日のことです。それは、6年後の昭和6年(1931)が、日蓮聖人第650遠忌の正当で、教育機関の設立を報恩記念事業とするものでした。
日歸上人が、女子教育の重要性を確信されたのは、若き日に、のちに身延山第74世の法主となられた吉川日鑑上人(1827~86)との出会いであり、その信徒である林庄兵衛氏との深い交わりの結果であると推察されます。日鑑上人の下総内山の妙広寺での門下教育(桜花園)は、在家・出家、あるいは男性・女性を区別することなく、しかも、すべての子どもたちの大切な先生、導き手は母親(女性)にある、との大前提に立つものでした。
そこで、日歸上人が明治44年(1911)7月、堀之内妙法寺第29世武見日恕上人の後をうけて、第30世の貫首となったときから、日蓮聖人第650遠忌の記念事業を勘案される過程にあって、堂塔伽藍の整備、あるいは新たなる堂塔の建築があったと拝察されます。
日歸上人は、すでに明治14年(1881)、18歳のとき日蓮聖人第600遠忌に出会っています。身延山は、明治8年(1875)正月の大火災を克服し、日鑑上人をはじめとする諸師の大活躍によって棲神閣(祖師堂)が落慶し、ここにおいて遠忌の大法要が3期に分けて修せられ、全国の檀信徒の参詣がなされています。日歸上人が出家された堀之内法縁においても種々の記念行事が遂行され、妙法寺祖師堂の扁額「感應法閣」の文字は日鑑上人の揮毫ですし、祖師堂銅板屋根の葺替えも、遠忌の記念事業の一環であったと拝察されます。
また日歸上人は、明治時代の宗門の教育機関(大檀林制の中教院、大檀支林)で研鑚され、その校地が品川区大崎へ移り、日蓮宗大学林、日蓮宗大学へと校名が変わるなか、大正7年(1918)12月の「大学令」発布のもと、ついに大正13年5月16日、「立正大学」として創立され、6月15日、創立記念式典が挙行されます。
このとき、日歸上人は日蓮宗を代表する「宗務総監」として、その責務を達成されたのです。
このようにたどって来ますと、堀之内学園創立者の日歸上人の活躍は、まさに八面六臂であったことを知るのです。そして、昭和6年の第650遠忌には、第82世の法主として、3期にわたる大導師をつとめられることになったのです。(論説委員・北川前肇)

2025年11月1日号
全人的医療の善医・四条金吾
全人的医療という言葉がある。
全人的医療とは「病める人の全体を診る医療」のことである。高木兼寛医学博士は「病を診ずして病人を診よ」といい、医学教育の基礎を築いたウイリアム・オスラーは「病いだけでなく病者を診よ」「良き医師は病気を治療し、偉大な医師は病者を治療する」という言葉を残している。これが医療の本来の姿であるはずだが、近年人工知能(AI)が医療の世界に進出して大きな役割を果たすようになってきている現状を見ると、人を乗り越えて「病気の治療に優れている」ことが医療の本質であるかのごとき理解が広まっているのではと危惧させられる。
全人的医療の背景には「病気を治療する」ということだけではない大きな意味が含まれている。すなわち、病者の人格を尊重し、多角的な視点から多くの病態を洞察するという意味である。また全人的医療では、臓器・器官あるいは専門領域を超えて病態を洞察すること、病者の人間性を尊重し、そしてその病態に関わる外的環境要因に細心の注意を払うことが求められる。そしてその基盤には、医療者の病者に関わる慈愛の心がなければならない。
臓器・器官あるいは専門領域を超えた病態、すなわち個人の病態への洞察として求められるのは、病者の感情と精神活動への理解であり、さらには霊的存在としての病者に配慮する医療者としての慈愛の心である。さらに病者を取り巻く環境や社会、文化的背景、歩んできた個人としての歴史、家族の状況などへの理解が必要である。医療の世界への進出が著しい人工知能(AI)技術がこれらをそなえているとは考え難い。
日蓮聖人に「善医」と称された檀越に、鎌倉幕府の北条家に仕える武士の四条金吾がいた。四条金吾が病気治療に関わる時には、常日頃の日蓮聖人の教示による法華経信仰に基づく謗法懴悔・善神守護の祈りの力を根本として、その上で身の病に対しては取り得る最善の対処を行うというのが治病対処の基本であったと思われる。
例えば主君の江馬光時の重病に対して請われて治病に当たった際、髪をつくろわず衣服を整える暇も惜しんで側に仕えて看病に当たり、病状の移り変わりに臨機応変に対応して、施療に当たりなさいとの日蓮聖人のご教示のお手紙が残っている。恐らく生薬の処方や針、灸などの指示を出しただけではなく、その後の経過を観察しながら変化に応じて対処法をこまめに変えて看病に当たったのではないかと推察され、そのことが主君の信頼を勝ち得て領地を賜ることにつながったと思われる。
日蓮聖人が晩年に体調をくずされた際にも、聖人ご自身が「日々の論義、月々の難、両度の流罪に身つかれ、心いたみ候し故にや」とその原因について深く洞察されている内容について理解した上で、これまでの病状の経緯や、身延山の過酷な自然環境や食生活などについて思いをめぐらしながら対処方法を考え、服用すべき生薬、生活上の注意などについて細心の助言をしたのではなかろうか。そのような、病状だけを見て判断するのではなく生活歴や環境全般にまで配慮して治病に向けた助言をしたからこそ、「貴辺の良薬を服して病状が回復した」と述べ、信徒の富木常忍夫人の病に対して「しかも善医あり。中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり」と、四条金吾の治療を受けることを勧めるほどであった。四条金吾は、日蓮聖人が称賛するほど、全人的医療を弁えた善医であったのではないかと思う。 (論説委員・柴田寛彦)




















