論説

2024年3月10日号

利他のすすめ

1月1日に発生した能登半島地震から2ヵ月が経過した。被災地には災害ボランティアが集まりだし、被災者の手助けと復興のために努力している。さぞかし現地の人びとは喜び、励まされていることだろう。彼らは自分たちにできることがあるのではないか、被災者を助けたいという強い意欲など、何らかの役に立ちたいとの思いから行動している。
自分のことよりも他の人のために尽くす心を利他能登地震被害視察①の心という。それとは逆に自らの利益のみを求めることを自利という。そこで他者の幸せに貢献することを自らの喜びとするという「自利即利他」が、理想の利他とされる。この利他の心は、京セラ創業者の故・稲盛和夫氏が語ったことから広く知られるようになった。同氏は物事の判断をする際に、自分だけのことを考えるだけでなく周りの人のことを考え、利他の心を持つことで周りの人が協力し、視野も広くなるので正しい判断ができるようになると説いている。
利他はもともと仏教の教えであり、他者を悟りに導き、救済に努めることである。お釈迦さまが仏教を説かれ、その滅後5百年頃に大乗仏教が誕生した。この大乗仏教は己の得道とともに人びとの救済を目指す利他の教えを説くことで、自らの解脱を求めたそれまでの部派仏教との明確な違いを示したのである。利他の教えこそ大乗仏教の一大精神であり、その行いを利他行と称して人びとを救う菩薩の修行の大事な徳目の1つに挙げている。
特に法華経では仏の滅後の衆生救済を誓った地涌の菩薩や、出会う人ごとに相手を敬い合掌礼拝する常不軽菩薩の行法が説かれている。日蓮聖人は、こうした利他の精神を御書や信徒に宛てた多数のご消息文を通して伝えられた。後世これを実践する門下や信徒が現われ、明治期にハンセン病患者の救済に生涯を捧げた綱脇龍妙上人をはじめ、多くの人びとがその足跡を残した。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩の中に謳う、東西南北に奔走するデクノボウも、こうした行いを描いている。
伝教大師最澄は「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と説いている。利他的な行動は思いやりや共感、愛情などの感情から生じることが多く、例えばビジネスシーンでも周囲との関係性を良くすることができ、幸福度が高いともいわれる。
そこで利他の行いを身につけるためには、例えば高齢者に席を譲る、身体の不自由な人に何かしらの手助けをするなど、身近なことから始めることが良い。そうした家庭や地域社会など日常生活で可能な活動から、広くは世界平和や社会への貢献をはじめ、国内外のさまざまなボランティア活動へと利他の行いは広がるだろう。
そもそも人は誰しも自分が可愛く、利己的な存在である。ましてや昨今の世相は自己中心的な振る舞いが横行し、人間関係もギスギスしがちである。この利他の心を実践することによって利己的な心から離れることができ、その結果、思いやりに溢れた家庭や地域社会を築く1歩になるのでは、と期待している。
稲盛氏は、「人は何のために生きるのかといえば、その第1の目的は、世のため人のためにささやかでもいいから尽くすことである」と述べ、他人の幸せを願い、社会に貢献することを人生の目的と考えていたという。日々を大切に生きるとは、自利即利他の心で自分も充実し、人にも喜ばれて活き活きと生きることであり、それが生きがいともなるだろう。その時、あなたは菩薩としての生き方をしているのである。
(論説委員・古河良晧)

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2024年3月1日号

末法・未来世の人びとが救われるために

数え年50歳の日蓮聖人(1222~82)は、鎌倉幕府の裁定によって、流人として相模国依智郷(現在の神奈川県厚木市)にある佐渡国の地頭・本間重連の邸宅に拘束されていました。そして文永8年(1271)10月10日、聖人は幕府の処断のもと、流罪(遠流)の地・佐渡国へと移送されることになります。10年以前の伊豆国の流罪につづいて、2度目の遠流です。
若き日の日蓮聖人は、自己がこの世に生命を享け、社会に生かされている中で、いかなる生き方が正しい道であるかを考えられ、大乗仏教で説き明かされる四恩に報ずる道を選ばれたのです。すなわち、父母・国土(主)・師匠・三宝などの大恩に報ずる化他行こそが自己の生きる道であると確信されたのです。これらの大恩に報いる真実の道は、仏教の教主である釈尊の弟子(出家者)となり、そのみ教えを体得することにあると確信され、その理想のすがたを「智者」と表現されているのです。
出家の目的が、智者となることだった聖人にとって、日々の修行は過酷なものであったと拝察されます。なぜならその目的とされる到達点は、単に当時の八宗・十宗の教えを全般的に理解するとか、聖人が出家された天台法華宗の教義と修行とを自己の満足度で終了するというものではなかったと思われるからです。
釈尊が私たちに与えられる真実の教えとは何であるのか。釈尊の時代からはるかにへだたった末法の時代の人びとが救われる道は何であるのか。また釈尊が活躍されたインドを中心とした地理的空間から見れば、日本国は東方に位置する小さな周辺国にすぎないのだから、仏の慈悲の光が到達しないのではないのか。そういった根本問題が聖人の日々にあったと考えられます。
聖人にとって、自己が生存している周囲の人びとに対して大恩に報いるという生き方には、末法の世の人びと・日本国の人びと・そしてはるかな未来世の末法万年の人びとが救われる教えをはっきりと信認識することが不可欠であったと思われます。
12歳で出家し、20年余にわたる聖人の歳月は、諸国遊学し、釈尊の真実を求めつづけ、仏の教えを習い極められるという求道であり、ついにその確信を得られたのです。この表明が故郷の清澄寺でなされた「立教開宗」です。すなわち、聖人32歳の建長5年(1253)4月28日のことです。
聖人の弘教活動は、釈尊の真実に生き、末法の日本国の人びとにとって、真実のあかしを示される行動でした。その行動に対する代償は、法難としての「伊豆流罪」「佐渡流罪」でした。ことに50歳を迎えられた聖人にとって佐渡流罪は、自然環境の厳しさ、幕府からの監視の厳しさにより、たえず生命の危機にさらされる過酷なものでした。下総の檀越富木氏に与えられた手紙には、「臨終」の覚悟が明示されています。
このように聖人の歩みをたどるとき、聖人はみずからの「死」をつねに感じられながら、教主釈尊への信仰を深められ、釈尊とともにある法悦を体感されました。それによって「南無妙法蓮華経」の教えが釈尊から聖人へ手渡され、その教えを末法の人びとに託されていることを確信されたのです。
それらのことを考えるとき、聖人にとっての法難は、宗教的に深い意義をもち、私たちは聖人の教えに直参することの大切さを痛感しないではいられないのです。  (論説委員・北川前肇)

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