2024年3月1日
末法・未来世の人びとが救われるために
数え年50歳の日蓮聖人(1222~82)は、鎌倉幕府の裁定によって、流人として相模国依智郷(現在の神奈川県厚木市)にある佐渡国の地頭・本間重連の邸宅に拘束されていました。そして文永8年(1271)10月10日、聖人は幕府の処断のもと、流罪(遠流)の地・佐渡国へと移送されることになります。10年以前の伊豆国の流罪につづいて、2度目の遠流です。
若き日の日蓮聖人は、自己がこの世に生命を享け、社会に生かされている中で、いかなる生き方が正しい道であるかを考えられ、大乗仏教で説き明かされる四恩に報ずる道を選ばれたのです。すなわち、父母・国土(主)・師匠・三宝などの大恩に報ずる化他行こそが自己の生きる道であると確信されたのです。これらの大恩に報いる真実の道は、仏教の教主である釈尊の弟子(出家者)となり、そのみ教えを体得することにあると確信され、その理想のすがたを「智者」と表現されているのです。
出家の目的が、智者となることだった聖人にとって、日々の修行は過酷なものであったと拝察されます。なぜならその目的とされる到達点は、単に当時の八宗・十宗の教えを全般的に理解するとか、聖人が出家された天台法華宗の教義と修行とを自己の満足度で終了するというものではなかったと思われるからです。
釈尊が私たちに与えられる真実の教えとは何であるのか。釈尊の時代からはるかにへだたった末法の時代の人びとが救われる道は何であるのか。また釈尊が活躍されたインドを中心とした地理的空間から見れば、日本国は東方に位置する小さな周辺国にすぎないのだから、仏の慈悲の光が到達しないのではないのか。そういった根本問題が聖人の日々にあったと考えられます。
聖人にとって、自己が生存している周囲の人びとに対して大恩に報いるという生き方には、末法の世の人びと・日本国の人びと・そしてはるかな未来世の末法万年の人びとが救われる教えをはっきりと信認識することが不可欠であったと思われます。
12歳で出家し、20年余にわたる聖人の歳月は、諸国遊学し、釈尊の真実を求めつづけ、仏の教えを習い極められるという求道であり、ついにその確信を得られたのです。この表明が故郷の清澄寺でなされた「立教開宗」です。すなわち、聖人32歳の建長5年(1253)4月28日のことです。
聖人の弘教活動は、釈尊の真実に生き、末法の日本国の人びとにとって、真実のあかしを示される行動でした。その行動に対する代償は、法難としての「伊豆流罪」「佐渡流罪」でした。ことに50歳を迎えられた聖人にとって佐渡流罪は、自然環境の厳しさ、幕府からの監視の厳しさにより、たえず生命の危機にさらされる過酷なものでした。下総の檀越富木氏に与えられた手紙には、「臨終」の覚悟が明示されています。
このように聖人の歩みをたどるとき、聖人はみずからの「死」をつねに感じられながら、教主釈尊への信仰を深められ、釈尊とともにある法悦を体感されました。それによって「南無妙法蓮華経」の教えが釈尊から聖人へ手渡され、その教えを末法の人びとに託されていることを確信されたのです。
それらのことを考えるとき、聖人にとっての法難は、宗教的に深い意義をもち、私たちは聖人の教えに直参することの大切さを痛感しないではいられないのです。 (論説委員・北川前肇)




















