論説
2025年4月20日号
唱題の念―こころを養う
新しい年度が始まり20日が経過して、年度初めの慌ただしさから解放されたでしょうか? 今号がお手元に届いてから1週間ほど経つと、第773回の立教開宗の佳辰を迎えます。
日蓮聖人が現在の千葉県鴨川市清澄の旭が森で、法華経を弘める決意を込めて昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えられたのが、建長5年(1253)4月28日でした。この後、清澄寺本堂に集まった大衆に法華経が最も勝れた教えであること、そして極楽浄土に往生できるように願う阿弥陀仏を念仏することへの批判を説くと、地頭の東条景信ら念仏を唱えていた人びとの猛烈な反抗によって清澄寺を追放されてしまいます。苦難のご生涯が始まる契機となった日なのです。
私たちにとっては、お題目を唱える有り難さ、釈尊の真意を弘めて下さった最初の記念日なのですから、この日を「佳辰・嘉辰(めでたい日)」と捉えることは至極当然のことであるといえます。翻ってみれば、つまり往時の状況を追懐すれば、お題目を唱える一分の身として「喜ばしい日」とは決していえないことに気づくでしょう。
歴史に「~たら」や「~れば」がないことは当たり前のことですが、もし東条景信らの一党がこの時に日蓮聖人の説法を聞き入れる耳を持っていてくれたのならば、と思わざるを得なくなります。そうすれば、日蓮聖人の人生は「大難四ヵ度、小難数知れず」といわれたご生涯となることはなかったのではないか、もっと長い人生を全うできたのではないか、平易な布教ができたのではないか、と慮ってしまうのは私だけでしょうか。このような気持ちになるほど日蓮聖人のご生涯は波乱万丈、しかも自ら選んでその苦難に向かわれていったという精神性にはまったく深い感銘と、自分に置き換えるならば退転やむなしといった絶望感を覚えます。これが個の信仰という形で内省していっただけならば、鎌倉期のほかの祖師たちと変わらなかったでしょう。「変わりがない」ということは、現在にまで日蓮聖人の教えが残っていたかどうかも判りません。すると、東条景信らの行動は、「法華経が最も勝れている」という仏教の叡智が、日蓮聖人の言葉を通して私たちのもとに届けられることを可能にする重要な活動として位置づけられるのでないか、と逆に問うことができます。釈尊と提婆達多の関係が思い浮かびます。
「ひるはみぐるしう候へば、よるまいり候はん(中略)法門をも御だんぎ(談義)あるべく候」(『富木殿御返事』)。建長5年12月9日に発せられたこの手紙から読めるように、4月から半年以上が経っても、昼日中の移動をはばかり、日が落ちるころを見計らって富木殿を訪ねて法華経の談義ができることに喜びを見出していたことが伺えます。この喜び「隨喜」こそが、迫害下の聖人をして法華経を弘める原動力になっていったと推し量れるのです。
現在の私たちを考えてみましょう。「こころ」に自然と満足を感じ、ワクワクしてくるようなひと時を持った経験はありますか? スポーツや趣味に没頭しているとき、日常とかけ離れた状態で、このような気持ちが沸いてくることはあります。繰り返す日常を離れて求めることは、充足感や満足感、新たな知見を得た喜びでしょう。「南無妙法蓮華経」を唱えるとき、そこは久遠の釈尊のおわす法華経の虚空会(本門の世界)に等しいと感じられていますか。そのような人には「隨喜」が沸いてきます。お題目を唱える「こころ」を養いましょう。(論説委員・池上要靖)




















