2013年4月14日
法華経に帰依し、お題目唱えた2代目吉野太夫の花供養
忘れられた吉野太夫と常照寺 2つの出合いが古都の文化生む
帝(天皇)との謁見を許された芸妓最高の称号「太夫」。京都市常照寺(奥田正叡住職)に眠る、「寛永三名妓、天下随一希代の太夫」と謳われた二代目吉野太夫への花供養が4月14日に営まれた。当日は、現在の太夫たちが同寺まで練り行列し、法要で献茶などを行うため、その姿を一目見ようと全国から大勢の観光客や参拝者が訪れた。この花供養は法要に参列した門川大作京都市長が挨拶で、「京都の文化行事」と述べるほど、古都の風物詩となっている。
吉野太夫(1606-43、本名松田徳子)は7歳で父と死別した後、六条三筋町(現在は島原)の遊里に預けられ、厳しい躾で教養や文化芸能を身に付けわずか14歳で太夫となった。また同寺開山の日乾上人に帰依し、山門(通称吉野門)を23歳で寄進。26歳で豪商の灰屋紹益(本名佐野重孝)と結婚したが、佐野の親族から勘当され、38歳の若さで霊山浄土に旅立つまで貧しく暮らしたと言われている。法名はお題目(玄題)を唱え、仏性を磨いた吉野太夫にふさわしく「唱玄院妙蓮日性信女」を授けられている。ちなみに吉野太夫は10代まで続き、一般的に吉野太夫と言えば2代目の松田徳子を指す。また吉川英治の小説『宮本武蔵』には芸を通して武蔵に人の生き方を諭す、才色兼備の女性として描かれる。しかし、戦後まもなくの昭和27年(1952)、前住職の奥田恵遠上人が入寺した当時には、島原の人びとにさえその名は忘れられていた。
寛永4年(1627)に開創された常照寺は、僧侶の学問所「鷹峰檀林」として栄え、境内には約30の堂宇を有する伽藍を整えていたが、明治の教育改革制度で檀林が廃止されたため檀家寺となった。恵遠前住職の入寺頃には吉野門と本堂など数棟を残すのみの寂しい伽藍となり、吉野太夫と同じく人びとの記憶から失われたような寺院となっていた。この二つを引き合わせ、かつて本阿弥光悦を中心とした芸術郷だった鷹峯の地に、京都の新しい文化を生み育んだのが恵遠上人と当時の名士たちだった。
恵遠上人は、芸を極め信仰に生きた吉野太夫の生き様を、法華経信者のみならず人としての手本として世に伝える使命に燃えて花供養の開催を決意。島原に赴き吉野太夫の素晴らしさを説き、協力を得て第1回が入寺と同じ年に開かれた。今年で61回目を迎えたが、恵遠上人の娘、浩叡法尼は「花供養で当山も世に知られるようになりましたが、思い出すのは父と母がいつも苦労していた姿です。それでも両親は“信”の一字でお題目を唱え、ここまで常照寺を支えてきた」と振り返る。平成11年、正叡現住職が法灯を継いで自らは院首となったが、檀信徒、正叡住職、寺族とともに法華経弘通を続けた。次第に鬼子母神堂や茶室などが建立され、檀林で栄えていた頃のように、同寺は再び信仰息づく寺院に生まれ変わっていった。
昨年10月、恵遠院首は85歳で遷化された。創始者のいない初めての花供養を迎えた正叡住職は、「日本だけでなく、世界にも吉野太夫の信仰の姿を通し法華経を伝えたい。この伝統行事を続けていくためには、宗教としての骨格を基本として、絶えず改革を行っていくことが必要」とさらなる興隆を誓った。実際に、正叡住職は法灯とともに恵遠上人の意思を受け継ぎ、活動拠点となる数寄屋造りの書院と庫裡を完成させ、唱題行やお経練習会、ボランティア茶会で寺門を開放する活動を展開し続けている。
継続することで伝統として華開き、その種を大事に育てていく。今回、花供養に訪れ、「結果が成功ではなく、続けるという行為そのものが成功であり求道者の姿」だと恵遠上人が語っているように感じた。恵遠上人の増円妙道をお祈りする。



















