全国の通信記事
2026年7月7日号
大阪和泉 社教会の研修会
【大阪和泉】令和8年7月7日、大阪府堺市の本山妙國寺(岡部日聡貫首)の仏心殿内において和泉社教会の研修会が開催された。研修会には石川県第二部宗務所長、珠洲市本住寺御山主、大句哲正上人による講話が行われ、「能登半島の被災状況 当時と現在について」と題し、地震後の各寺院の様子や津波の危険さ、輪島の火事の悲惨さを語られた。困ったこととしてトイレや断水、洗濯や風呂の使用不可、情報の入手困難などを挙げられた。防災を考えるという点では自助(自分の身は自分で守る)から共助(近所や地域の人々と助け合う)、そして公助(役所、消防、警察、自衛隊などの助け)の順で助けがある。その中で大句上人は「今日を生きる」と明るく生活できるように工夫をこらした。結びに「地震は必ずある。命を守ることで精一杯で、全てを失った現実がある。しかし、まだまだできることはある」と被災の経験や被災地の現状などから、全国に災害意識を高め、防災、減災に繋げたい思いである。
2026年6月30日号
大阪和泉 殉忠遺跡供養塔で慰霊
【大阪和泉】令和8年6月30日、堺市石津にある「源顕家公(北畠顕家)・南部師行公殉忠遺跡供養塔」で足立英修宗務事務長を導師に宗務所役員が出仕し、源顕家公の供養を捧げた。
南北朝時代。南朝軍の総大将北畠顕家は部下の南部師行を始めとする兵を率い、北朝軍足利尊氏の執事高師直が率いる軍勢と善戦し退けるほどの活躍ぶりを見せ、花将軍と称され才覚を発揮した。しかしその後の戦いが優位に進まず、延元3(1338)年の「堺浦の戦い」で北畠顕家と南部師行などの将兵が石津の地で亡くなった。その時の状況を哀れに感じた石津の村人がこの地に葬り慰霊を行った。
正徳3(1713)年には行家塚の石碑と、大正8(1919)年には「此付近北畠顕家奮戦地」と記した石碑が建てられた。さらに昭和12(1937)年に「源顕家公(北畠顕家)・南部師行公殉忠遺跡供養塔」と「供養碑」が建てられ現在の景観となっている。同年6月27日には大阪雲雷寺にて身延山第83世望月日謙猊下を導師に殉忠600年記念法要が営まれ、堺石津の地で戦死した将兵を偲んだ。「供養塔」の正面には望月日謙猊下のお題目が記されている。
2025年9月30日号
大阪和泉 第55回近畿教区教研会議
【大阪和泉】令和7年9月30日、大阪府堺市の本山妙國寺(岡部日聡貫首)において第55回近畿教区教研会議「地域で『生き生き』生きるお寺へ~『苦に出会いなおす』ことでできること」が開催され、教師74名が参加した。
大阪市住吉区の浄土宗願生寺住職・大河内大博師が講師を勤め、自坊で実施している「お寺地域ともいき社会プロジェクトさっとさんが」の事例を元に、これからの地域における寺院・僧侶の活動戦略について、持論を展開した。
子ども食堂の運営を通じて社会の中に「恩送り」を定着させる仕組みを作ったり、医療的ケア児と地域の子どもたちの交流を通じて相互理解を育むことで、災害時においても自然に「恩送り」が行われ支えあいが可能となる、そうした「地域力」の醸成に寺院・僧侶が寄与することができると述べた。
また、法務とグリーフケアについては、遺族は死者との「継続する絆」を持ちながら、語ることを通して自分自身を再構築していくのであり、しっかり「傾聴」をすることでその営みを支えるのが、寺院・僧侶の役割であると述べた。
その後、三つの分散会に分かれて参加者から積極的な意見交換がなされた。全体会議では事業展開のきっかけやプロジェクト運営・組織化のアイデア、僧侶自身の心のケアなどについて、活発な質疑応答が行われ、大変有意義な研修会となった。



















