2019年6月2日
兵庫東 明石空襲犠牲者慰霊
【兵庫東】明石市大聖寺は太平洋戦争時の空襲による犠牲者を追悼する慰霊祭を6月2日、檀信徒約15人とともに営んだ。
明石市は川崎航空機の工場があることで空襲の標的になり、昭和20年に6回の空襲を受け、学徒動員の少年少女を含む約1500人が尊いいのちを失った。混乱の中でまとめて火葬され多数の遺骨は誰のものかも分からず、引き取り手のないものも多かったという。終戦の翌年に明石市と川崎航空機が大聖寺に墓を建立したが、入りきらない遺骨もあった。これを第21世の花谷日成上人が供養を続けてきた。花谷住職の遷化で一時無住となった時も、代理の日蓮宗僧侶がこの慰霊祭を毎年営んできた。第22世猪俣日康上人は荒れ果てた大聖寺を復興させるとともに、山門付近に入りきらない遺骨を納める慰霊塔を建立した。しかし平成7年、大聖寺は阪神淡路大震災で本堂などが半壊。高齢だった猪俣上人は松尾義康現住職に、戦災犠牲者の慰霊と寺の復興を託した。
松尾住職は平成25年に大聖寺の全面建て替えを決意。解体時に2つの墓を掘り起こすと数百人分とみられる大量の遺骨が出てきた。翌26年には、新しくなった寺の片隅に当時の墓石を使って2つの墓を建立した。毎年、最初の空襲があった1月19日と6月の第1日曜日には、松尾住職の呼びかけに応じた檀信徒が参列して慰霊祭が行われている。惨禍を次世代に伝え、太平洋戦争の全犠牲者に祈りを捧げようと、27年には寺の屋上に高さ約2㍍の日蓮聖人銅像を建立した。大聖寺では3代の住職が時代の困難や試練を乗り越えて慰霊と平和への祈りを積み重ねてきた。
松尾住職は「高齢化が進み、遺族の参列は絶えてしまったが、慰霊祭を続けていくのがこの寺の使命。明石市民でさえこの墓の存在を知っている人は少なくなってしまった。どなたでもいいからお墓参りに来てほしいです」と話す。