2015年9月20日
最近「安らぎ」や「癒やし」、「寄り添う」
最近「安らぎ」や「癒やし」、「寄り添う」といった言葉が評判だ。そしてそれがあたかも宗教の目的でもあるかのように使われていることに違和感を覚える。確かに宗教は救いや安らぎを説く。しかし、それは副次的なもの。とくに仏教は「成仏」が目的で、成仏したときに「安心」という真の「安らぎ」が得られるのだ▼四苦八苦に満ちた娑婆の人生。その苦の因って来る原因をしっかり見つめ、智慧をもって苦から解脱する「仏」を目指す。それが仏教だ。一時の「安らぎ」や「癒やし」で救われたような気になる。実はそれこそ仏教が恐れる「無明」だ。一時の「安らぎ」や「癒やし」で問題が解決したように思い、原因の究明や問題解決の努力を怠るようでは真の救いとはいえない▼法華経化城喩品に、仏さまは人びとを「宝所」に導くため、疲れた旅人に一時の休息所として「化城」を与えた。そして「汝だち当に進むべし、此れは是れ化城ならくのみ」と述べ、真の目的地を目指させた▼「安らぎ」や「癒やし」や「寄り添う」が求められるのは、それだけ世の中がギスギスし、人びとが不安と緊張で疲れているからだ。そんな人のために一時の「安らぎ」や「癒やし」の「化城」も大事。しかし「化城」はあくまで仮の城。世界全体が真に「安穏」な「仏国土」という「宝所」になるまでは、もっとがんばらなくては。(義)
