2024年1月1日号
すべてにいのちがある。慈しみの眼を
あけましておめでとうございます。
私たちが今こうしてお正月を迎えることができたのは、「いのち」があるからです。それは「私」の「いのち」があるからだけではありません。万物の「いのち」があるからこそ、「私」の「いのち」があり、今を迎えられるのです。
お正月にはおせち料理を食べます。私たちは「いただきます」といって野菜や肉、魚のいのちをいただいて新年を祝います。さらに、その野菜は農業に従事する人(いのち)が作ったいのちです。魚は漁業者が獲ってきたいのち。肉は畜産業者が育てたいのち。それらを運ぶ人、売る人、最後は料理する人。その人たちも同じように「いのち」の恩恵を受けて生きています。もちろん野菜や魚などもそうです。そしてその営みは祖先から続いています。そう考えると、数えきれないたくさんのいのちが関係して私がいることがわかります。
いのちは動植物など生き物に限ったものではありません。針供養や人形供養などがあるように、無機質なもののなかにも私たちはいのちを見出し、役目を終えた「物」に対しても畏敬の念をもって接してきました。箸や皿などすべてのものにもいのちがあるのです。私たちは「いのち」に対し、もっともっと関心を持たなくてはなりません。そして「私のいのち」だけではなく、「すべてのいのち」に慈しみの眼差しを向けていきましょう。
お釈迦さまは万物にいのちがあり、そのいのちのなかにある本質を私たちに伝えるために法華経を説かれました。法華経はいのちの教えでもあるのです。そのいのちの教えを弘めるご生涯を送られたのが日聖人です。日蓮聖人が建長5年(1253)に清澄山旭が森で昇る太陽に向かって唱えられた「南無妙法華経」。以来、多くのいのちによって伝えつながれ、そのバトンは今、私たちのいのちのなかにあります。
「南無妙法華経」に込められた日蓮聖人の思いの一部を意訳するならば、現在、日蓮宗が掲げている「いのちに合掌」となります。このすばらしい言葉を体現し、さらに誰かがまた体現してくれるように、伝え弘めていきましょう。