2010年8月1日号
田中日淳猊下がご遷化 日蓮宗第48代管長、大本山池上本門寺第81世貫首
日蓮宗第48代管長、大本山池上本門寺第81世貫首を務めた田中日淳猊下が7月18日、ご遷化された。世寿97歳。法号は本隆院日淳上人。20日午後6時から東京都大田区の照栄院(石川恒彦住職)で通夜、21日午前11時から本葬儀が営まれた。
敗戦後、シンガポール・チャンギー刑務所で処刑される日本軍人等の教誨師を務めた田中猊下。異国の地で最期を待つ受刑者の遺書を命がけで持ち帰り、生涯にわたって遺族・関係者の救済に心血を注いだ。通夜・本葬儀には全国から大勢の参列者が訪れ、猊下の遷化を悼み大きな遺徳に思いを馳せた。
田中猊下は大正3年、北海道生まれ。信仰篤い母親の願いで日蓮宗寺院に預けられ出家、池上本門寺塔頭の照栄院から立正大学仏教学部に通学した。
昭和15年応召。幹部候補生に選ばれ仙台の予備士官学校を卒業後、見習士官となると航空兵に転科。訓練の後にシンガポールにあった第三航空隊軍司令部勤務となった。
終戦を迎え、僧侶であることから司令部に要請されチャンギー刑務所の教誨師に。BC級戦争犯罪人とされた日本軍人等の最期をみとった田中猊下は、「彼らの最期の思い、最期の言葉を遺族に届けたい」の一心で、家族や友人に宛てトイレットペーパーや本の切れ端などに書かれた遺書を持ち出し寝る間を惜しんで書き写した。遺書はすべて焼却される決まりで、露見すれば自らも危機にさらされる状況のなか持ち帰られた写しは約120通にのぼる。
昭和22年9月に復員、11月に照栄院住職に。立正学園女子高等学校教諭を経て、昭和28年から池上本門寺に勤務。戦争で失われた伽藍の復興に力を注ぎ、執事長、宗祖第700遠忌協賛会事務局長を担い長きにわたり奉職した。
昭和63年4月に池上本門寺第81世貫首、平成7年12月には第48代日蓮宗管長に就任。管長就任の翌年は立教開宗750年慶讃事業が実動に入り、慶讃会実行委員会の総裁として陣頭指揮にあたった。
一方で、元戦犯の遺族や関係者にはどんなに忙しくても面会。昭和58年、照栄院内にチャンギー殉難者慰霊碑を建立した。
平成11年に管長、同12年に貫首を退任後は、後進の指導に専心していた。
日蓮宗宗務顧問、日蓮宗綜合財団理事、立正大学学園総裁、チャンギー慰霊会会長、日韓仏教交流協議会会長など数々の要職を歴任。特別大法功章受章、大僧正を叙任。
通夜が照栄院で7月20日、本山大坊本行寺前貫首の伊澤日祐師を導師に、翌21日には本葬儀が池上本門寺の酒井日慈貫首を導師に執り行われた。
日蓮宗管長の内野日総総本山身延山久遠寺法主、渡邊照敏宗務総長をはじめ約300人が参列する中、酒井貫首は嘆徳文で、戦災で焼かれた池上本門寺の復興に尽力した功績を讃えた。また田中猊下が日頃から「僧侶の本分は人づくりにある」と語っていたことに触れ、そのための法華経法話を毎週実践されていた姿を偲んだ。
田中猊下とともにチャンギー刑務所で韓国・朝鮮籍でありながら日本人の戦犯とされた人たちの救済にあたっている同進会の李鶴来会長が弔辞に立ち、境遇を理解し応援してくれたことに感謝を述べた。報恩の唱題が捧げられる中、参列者の献花でお別れを惜しんだ。