2006年7月10日号
沖縄慰霊の日 サトウキビ畑にお題目
「沖縄慰霊の日」の6月23日、神奈川県第一部青年会(伊東政浩会長)の呼びかけで全国から集まった青年僧と那覇市法華経寺(鹿糠堯順住職)の僧侶檀信徒、さらに同寺で修行する若者など約150人が沖縄戦最後の激戦地・糸満市内約13キロを行脚し、悲しみの地にお題目を轟かせた。
同日糸満市摩文仁の平和祈念公園は、戦没者の霊を慰め平和への誓いを新たにする人であふれ、「平和の礎(戦没者の名前を刻んだ記念碑)」では家族や仲間の名前を指でなでながら涙を流す姿が後を断たなかった。戦後61年を経た今でも、沖縄戦が残した心の傷が癒えることはない。
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第二次世界大戦末期、唯一の地上戦が行われた沖縄。昭和20年3月から6月までのたった3ヵ月間に、20数万もの尊い命が奪われた。逃げ場を失い集団自決に追い込まれた住民が大勢おり、日本兵に殺された住民も少なくなかったという。そんな人々のための慰霊塔が、沖縄南部に点在するサトウキビ畑に多く埋もれている。そしてまだ沢山の人が、遺骨を拾われることもなく眠っているという。
この二十数万人の戦没者の魂魄を慰めるため、そしていまだに繰り返される戦争への警鐘として、鹿糠住職率いる法華経寺と神奈川一部青年会では毎年「立正平和慰霊行脚」を行ってきた。そしてこのたび、兼ねてからの参加希望に応えて参加者を募ったところ、全国20管区から約90人の青年僧が結集した。
前日の22日には那覇市内のホテルで決起集会が行われ、伊東会長や平塚幸光神奈川一部宗務所長、河崎俊宏全国日蓮宗青年会会長、鹿糠住職が挨拶に立ち、「立正安国の強い意識を持ち、お題目を響かせよう」と明日への士気を高めた。
23日午前8時、一行は糸満市内を出発した。この日の気温は32度。じりじりと照りつける日差しのもと、大粒の汗を流しながら唱える力強いお題目がサトウキビ畑に響いた。途中、看護要員として動員された女子学生を祀った「ひめゆりの塔」、「長勇参謀長(慈厚院日勇上人)慰霊碑」、男子学生の鉄血勤皇隊を祀った「沖縄師範健児の塔」、牛島司令官と長勇参謀長らの慰霊碑「黎明の塔」で参拝回向し、平和祈念公園を目指した。
ひめゆりの塔から長勇参謀長慰霊碑までは、畑に囲まれたなだらかな道路沿いを行脚。玄題旗を先頭に、150人が一列になって一歩一歩を踏みしめた。健児の塔から黎明の塔までは、大きな岩が覆い被さるように突き出た細く急な階段が続いた。太平洋が一望できる黎明の塔で回向し、平和祈念公園に到着。一行は渾身の力を込めて法華経読誦・唱題回向を行い、戦没者の冥福を祈った。
その後、法華経寺で永村日鵬上人顕彰碑の除幕開眼式に参列したあと、本堂で鹿糠住職を導師に「沖縄戦戦没者慰霊法要 並平和祈願法要」を厳修。誓願文の中で伊東会長は、今の平和は戦没者の悼むべき犠牲の上に成り立っているとして「日蓮大聖人の立正安国の大誓願に基づき、お題目の結縁の大功徳による仏国土建設と戦争犠牲者への心よりの慰霊を行い、今後もたゆまざる前進に精進することを誓います」と力強く誓願した。
法要後の挨拶で鹿糠住職は「素晴らしい法要でした。青年僧諸君、もうあなたたちの時代です。祖願を胸に大志を抱き、世界へ羽ばたいてください!」と言葉を贈った。
慰霊行脚を終えて、伊東会長は「篤い思いで全国から参集されたその思いを忘れず、沖縄戦の悲惨さを語り継ぎ、立正平和を訴えて頂きたい。そして来年も多くの方々の参加をお待ちしています」と呼びかけた。