2004年5月10日号
丈六釈尊像修復完成奉告法要
日蓮聖人が錦の森と命名されたと伝えられる身延山上ノ山の丈六堂で、お釈迦さまの誕生日の4月8日に、丈六釈尊像修復完成奉告法要が営まれ、僧侶檀信徒約130人が参列した。
藤井法主、悲願の修復なる
法要は総本山身延山久遠寺藤井日光法主猊下の名代として井上瑞雄身延山久遠寺総務が導師をつとめ、身延山の僧侶、尼僧法団団員などが出仕して行われた。
法要中、釈迦如来立像の足下に仏舎利が奉納された。この仏舎利を奉納したのは元スリランカ駐日大使夫人のダミニ・バスナヤケさん。身延山久遠寺は身延山ロータス会としてスリランカ国内三ヵ所に身延山別院や支院、それに付随して幼稚園を経営しているため、その功績に対して、身延山へ奉納することになった。
奉告文では、藤井法主がお参りに来るたびに、涙を流しながら釈迦如来立像の修復を願われ、今回の事業を行ったことを述べた。
最後に井上総務が挨拶に立ち「皆さまの丹精を頂き、金色の素晴らしい丈六のお釈迦さまが出現しました。また仏舎利も奉安させて頂き、この悦びを、お釈迦さまに奉告しました。これから皆さんも丈六堂に足繁く通って頂き、お釈迦さまにお参りして頂きたい」と話し、終了した。
また法要に際し、尼僧法団(谷川善妙団長)の50周年法要も合わせて行われた。“身延山の丈六堂といえば尼僧さん”として親しまれるように、尼僧法団は昭和26年身延山中の無縁墓3600基
を整備した浄行を縁に、時の身延山84世の日円上人から管理を委託され丈六堂を守ってきた。今回、50周年の節目とし、身延山久遠寺へ丈六堂をお返しすることを決めた。最後にお給仕を務めたのは筒井妙清法尼と天田妙遵法尼の二人。谷川法尼は「釈尊修復の大願成就の日に、50周年ができて良かった。金色のお釈迦さまを目にすることができ、感激でいっぱいです。支えて下さった皆さまのおかげです」と涙を浮かべていた。当時は小さかった無縁墓脇の桜も現在では大きく成長し、尼僧法団の歴史を見守ってきた。
尼僧法団 全国行脚や海外布教 無縁墓整備に力
昭和22年、尼僧聯盟を創立。26年に尼僧法団と改名、梶山智孝法尼が中心となって約一年をかけ、身延山に散在する無縁の墓碑を洗い浄め3600基を整備。この浄縁行が縁となり、時の日円法主猊下から荒れたままの丈六堂の庫裡を尼僧寮に当てることを許可され、丈六堂の管理を託されることとなった。
尼僧法団は丈六堂でのお給仕の他に、世界の平和を祈念すると共に、仏さまのお言葉とお心を少しでもお伝えしようと、全国行脚や海外布教などの活動を行ってきた。
寛永20年に建立の丈六堂
寛永20年(1643)、身延山第26世日暹上人の時代、本山の境内に釈迦堂を建立。安置されている丈六の釈迦如来立像は、信仰に篤かった養珠院殿妙紹日心尊尼(お万の方)が願主となって奉納された。
その後、寛文4年(1664)の身延山第28世日奠上人の代に、現在地に遷座した。
釈迦如来立像の像高は5m58cmで、蓮華座上に立っている。また像の背後の仏壇に8段にわたって、元禄年間から嘉永年代の寄進及び戒名の銘文を有する総高20から60cmほどの釈迦如来立像(千体仏)が安置される。
胎内から願文など発見 修復のお釈迦さまの手足から
修復されたお釈迦さまの手足の部分から、胎内納入品が数点発見された。今回発見されたのは先祖供養のために行ったお題目写経や文書で、年代や信仰者を特定する上で貴重な資料となる。
調査に当たった望月真澄身延山大学助教授の話では、その背景には江戸時代、江戸に身延山久遠寺の祖師像の出開帳を行ったことにあり、当時の身延山における法華信仰を支えていたのが、江戸の庶民で、菩提供養のために努めていたお題目写経や願文などを、お釈迦さまの造立、または修復の際に納経したのではないかと考えられるという。