2007年9月10日号
灯籠流し 幻想的な灯り、亡き人の御霊弔う
灯籠(精霊)流しは、亡き人の魂を弔って灯籠やお供えものを海や川に流す日本古来の行事です。
日本各地の日蓮宗寺院で行われる中、横浜市大岡川では立正和協会が先人の労苦に思いを馳せました。和歌山市和歌の浦でも妹尾山護持顕彰会による精霊流しが行われ、多くの人々が死者の冥福を祈りました。
和歌の浦精霊流し
万葉集の歌枕となった古来の景勝地・和歌の浦。和歌山市南西部にある風光明媚なこの海岸で8月25日、「和歌の浦精霊流し会」(妹背山護持顕彰会主催 松本惠昌会長=和歌山市海禅院住職)が行われ、幻想的な灯りが亡き人の御霊を弔った。
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名勝・和歌の浦に浮かぶ小さな島「妹背山」に、紀州徳川家ゆかりの多宝塔が建つ海禅院はある。
江戸時代初期、徳川家康の側室・養珠院お万の方が、家康の33回忌追善供養とすべての人の幸せのためにと、法華経の一字一石書写を行った。その思いは多くの人に伝播し、後水尾天皇や皇后、宮家、徳川一門や庶民などが願いを込め書写した経石が20万個も集まったという。お万の方はこれを妹背山に埋納し、題目碑を建立。お万の方逝去後、紀州藩主・徳川頼宣公が母の菩提を弔うため、同所に建立したのがこの多宝塔である。
往時は唐門や瑞門、拝殿などの伽藍を構えた海禅院だったが、紀州徳川家の庇護を離れた後、境内地のほとんどを上地され、多宝塔だけを残して廃寺同然となった。その後、歴代住職が護持に努めてきたものの復興には至らなかった。
「和歌の浦は、和歌山市に生まれ育った人にとって一度は遊んだ思い出の場所。そして和歌山の歴史と文化の中心となる重要な場所なのです」。そう語るのは平成12年に海禅院住職に就任した松本惠昌師。入寺当初の海禅院は荒廃し、檀信徒も皆無だったという。松本師は同市信行寺の代務住職、さらに同市本山報恩寺の執事長も務める多忙の身ながら、「住職となったからには、名ばかりでなく花も実もある寺院にしたい。そして建物の復興だけでなく、それに見合う心を育て、この美しい和歌の浦を未来の子どもたちに残したい」と、妹背山護持顕彰会を発会。徳川期伽藍の復興を目指し、地元著名人や有識者の協力を得ながら、妹背山の護持運営をはじめ、お万の方が埋納された経石の発掘調査(ホームページ http://imosefutatabi.net/ で毎週月曜日更新中)などを行ってきた。その熱意と行動が多くの人の賛同を呼び、海禅院の檀家は7軒、信徒は150人に増えた。妹背山護持顕彰会の会員数は130人、準会員数は670人にのぼる。
また同会では文化講演会の開催など、妹背山を基点とした文化発展にも尽力している。このたび行われた精霊流しもその一環として平成13年から開催しているもので、和歌山市の夏の終わりを彩る風物詩となりつつある。
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午後6時半、和歌の浦と妹背山周辺の松明に灯がともされ準備が整うと、海禅院多宝塔の前で松本師を導師に法味が言上された。その後式衆は、大きな精霊船と共に海辺に設置されたご宝前に移動。松明が点々と灯る幻想的な風景の中で法要が営まれ、灯籠流しが始まった。
松本師が経木塔婆を読み上げる中、一基一基ていねいに流された灯籠は、やさしい灯りをともしながら水面を漂った。灯籠供養をした700人の人々は、出仕の僧侶に撰経をあてられると手を合わせ、思いびとの冥福を祈っていた。
横浜灯籠流し
2年後に150周年を迎える開港によって、国内外の技術・文化・人が集い発展を遂げた大都市・横浜。「歴史の陰に多くの先人の苦労があることを忘れてはならない」と、横浜市内の日蓮宗教会・結社からなる立正和協会(齊藤憲明会長)は8月26日、市内を流れる大岡川「旭橋」際で、関東大震災や横浜大空襲の犠牲者、交通・海難・水難事故で亡くなった諸精霊を供養する「灯籠流し」を行った。
午後6時、河畔に設置されたご宝前で、平塚幸光神奈川一部宗務所長、伊東正光日蓮宗新聞社社長ら参列のもと川施餓鬼法要が営まれ、導師の齊藤会長が万霊を供養する表白文を奉読。神奈川一部寺庭婦人会と檀信徒による和讃が、夕刻の横浜に広がった。
故人の戒名が書かれた灯籠500基が川面に流れ始めると、600人にのぼる市民や檀信徒は故人に想いを馳せるように、連なる明かりを見つめ手を合わせていた。
地域の夏の行事として定着しているこの「灯籠流し」は、来年で60回を迎える。