2026年3月10日
第650遠忌と岡田日歸上人
昭和6年(1931)10月13日、宗祖日蓮聖人第650遠忌のご正当を迎える聖人門下の寺院をはじめ、檀信徒の人たちにとって、いかに日蓮聖人の大恩に報いるべきかを、それぞれに考えられたことと、拝察できます。
日蓮宗総本山として、明治時代に宗門総意のもとに決められた身延山久遠寺におかれても、また同様でありました。
大正13年(1924)11月、第81世の身延山法主に晋山された杉田日布上人(1855―1930)は、7年後に迎える第650遠忌のご正当に向けて、宗祖への報恩事業を企画され、全山をあげて、それらの事業に着手されました。その主な事業は、1には身延山西谷に設けられている日蓮聖人御廟所の整備、2には仏殿納牌堂の新築、3には身延山諸堂の営繕、4には明治8年(1875)正月の大火以来の課題であった防火兼水道の整備などであったのです(『日布上人』3頁以下参照)。
これらの事業を推進される法主・日布上人は、その重責を担われ、翌大正14年には日蓮宗管長職に就かれています。また日布上人は、法主として粉骨砕身、全国への遊化活動にも当たられたのです。けれども、昭和5年11月下旬、ご親教の名古屋でご入院。ついに12月7日、入院加療の地(静岡県沼津市)で、76歳のご生涯を閉じられたのです。
法主猊下のご遷化は、久遠寺はもちろんのこと、日蓮宗にとって、翌年に第650遠忌大法要を営むことからも、重大な出来事でありました。宗門はただちに法主猊下の選出をはかり、昭和6年1月30日、東京堀之内妙法寺第30世岡田日歸(慈厚院・教篤)上人の身延山第82世の法主就任が決定したのです。
日布上人の本葬儀は、大導師日蓮宗管長酒井日愼上人のもと、昭和6年1月25日、新たに完成した仏殿納牌堂において営まれました。そして翌3月8日、棲神閣祖師堂で、岡田日歸上人の晋山式が挙行されたのです。
堀之内妙法寺の山主時代から岡田上人は、妙法寺の山門護持はもちろんのこと、宗門内外にわたり多くの貢献をされ、ことに女子教育のために昭和元年には「立正高等女学校」を創立、併せて「立正技芸専修女学校」を設置され、すでに卒業生を世に送り出していました。
このように、有徳の上人でしたから、3月8日に身延山の晋山式へ出発される上人を見送るため、3月7日午後11時12分、東京駅発の臨時列車を、約2万人の出家、在家の人たちが見送り、2千人を超える参加者とともに、身延駅へ向かわれました。3月8日午前6時、紫の法衣を召された岡田上人は、お変わりなく身延へ到着、晋山式にのぞまれたのです(『身延教報』第24巻第3号参照)。
身延山久遠寺における遠忌大法要は、全国各寺院の参列のもと、全3期に分けて営まれました。第1期(昭和6年4月7日から13日までの7日間)、第2期(同年5月1日から15日の15日間)、第3期(同年10月6日から15日の10日間)にわたる大法要が営まれたのです。これらの大法要の大導師をつとめられた岡田上人は、昭和8年11月15日午後6時、突然の病魔によって、遷化されました。
身延山では、杉田日布上人の1周忌法要が、ご命日の12月7日午前10時と決められていました。そこで、宗門要路出席のもと、12月8日午後1時から、岡田上人の本葬儀が営まれたのです。 (論説委員・北川前肇)




















