2026年2月20日
海外布教の現場に学ぶ
今はもうなくなってしまったが、私がアメリカのシアトルのお寺にいた頃に日系の介護施設があり、そこで毎月法要をさせてもらっていた。仏教に関心のある人は誰でも参加できるようになっていた。参列者は毎回異なるが、日系人に限らず中華系やベトナム系、非アジア系の人もいた。
着任したての頃、「さてシアトル日蓮仏教会としてどのような法要を行おうか」とメンバー(檀信徒)の皆さんと相談をして法要を組み立てた。そのなかで、開経偈は真読にしたら意味が少しでも伝わりやすいとか、お題目はゆったりと唱えよう、ご回向は英語でしっかりと伝わるように行おう、といった骨子ができ上がった。毎月のことなので、4月ならば花まつりを意識するといった季節的なことも取り入れるが、法要のある一部分を耳にしただけでも、「ああ、先生(そのように呼ばれる)が今月も来てくれたな」と安心してもらえるような点を大切にした。これは、お寺にいて法要を組み立てるのとは少し違う観点が必要だったので大変良い経験となったし、アメリカ社会の多様性も意識することができた。印刷したプログラムを毎回参列者に配布するため、中華系の参列者は漢字からその意味を受け取ってくれるかもしれないという意味もあった。
そのようななかで選んだご遺文が、『法華取要抄』である。「此の土の我等衆生は五百塵点劫よりこのかた、教主釈尊の愛子なり」という部分は大変伝わりやすいのではないかと考え、話し合って決めた。「私たちはお釈迦さまの愛する子」…。仏教徒や仏教に関心がある人が聞いたら心が躍るようなお言葉である。守られていることを実感できる。そして「有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水に浮かぶが如し」という箇所は例えが大変に美しく、その意味するところは心に響く。ご遺文は英訳も読むのだが、この法要には訪問している親族なども参加できるので、たとえ日本語を話さない人でも英訳を聞いてその意味するところが伝わる。シアトルは自然がとても美しい地なので、「天月」や「清水」といった言葉から情景が浮かびやすいと思われる。参列者のなかには、心に感じたことをそのままに表現する人も多くいて、涙を浮かべる人やいつまでも手を握ってくれる人がいた。
法要が終わった後は、その時節に合わせた法話をすることもあれば、時には歌を歌うこともあった。そして、1人ずつゆっくりと焼香をしてもらい、焼香後には感謝の気持ちを込めて手を握らせてもらう。
毎回、去りがたい気持ちで施設を後にするのだが、最後に大きな声で必ずお伝えしていたのが、「今日も1日朗らかに過ごしましょう!」という趣旨のことであった。どうか今日の1日を安穏に過ごしてくださいますように、その1日1日が連なって、来月になりますように。
法要にはいつも、お寺のメンバーも来てくれていた。そして、「持参したお曼荼羅を掲げる」「プログラムを配る」「参列者に声がけをする」といったそれぞれの役割を果たしてくれた。素晴らしいチームワークによる豊かな時間であったと思い出す。施設の庭園は、いつも整然と保たれていて殊に桜の時期は美しく、檀信徒の庭師が丁寧な仕事をする後ろ姿は今も記憶に遠くない。さまざまな事情があってのことだろう、コロナになる前に施設は閉じられた。感謝とともに寂しい思いが残る。 (論説委員・村上慧香)




















