2025年10月10日
イタむ心
◆イタむまで
JR線に乗っていた時のこと。有名なある会社の管理職らしい人と、30代後半ぐらいのこざっぱりしたスーツを着た2人の交わす会話が聞こえてきた。
「いやあ、毎日ほんとうに嫌になるね。イタましい気持ちでいっぱいだよ」
「あっ、部長さんはあちらの方に駐在されていましたね」
「そうなんだよ。ドーハ(カタール)とテルアビブ(イスラエル)にね。もう10年以上前になるかな。イスラエルが空爆したドーハの事務所が近かったから肝を冷やしたよ。ガザもひどいしね。ガザ市には何回か行ったんだけど、今じゃ誰とも連絡が取れない…」
イスラエルによるガザ地区侵攻が始まって2年が経過した。2023年10月7日にパレスチナのイスラム原理主義組織ハマスが、イスラエルのガザ近郊の軍事施設などをロケット弾で攻撃し、その後に地上作戦を展開して人質240人を拉致した。これにより、イスラエルは戦時内閣を発足して対抗し、空爆や無人機攻撃、地上作戦を展開してガザ地区全域を制圧し、未だにハマスの殲滅掃討を目指して活動を激化させている。件の部長が呟いた「イタましい」とは、この激化した戦闘で犠牲となった非戦闘員の老若男女、特に乳幼児・児童といった社会的な弱者を指して言ったのであろう。現在の死者数は6万5千人を超えている。ガザ地区220万人の、実に3%が殺戮されたのである。国連の人権委員会の報告書はこの蛮行を「ジェノサイド(大量虐殺)」と認定した。それでも、イスラエル政府の方針は、今日も変わっていないだろう。
◆イタみを考える
紛争の情報を受け取る我々には、惨状が無味な数字として伝えられる。その数字に込められる意味は私たちの心にトゲのように刺さり、イタみをもたらす。それが、彼にとっては「イタましい」という言葉で表出される。「痛」なのか、「傷」なのか、「悼」なのか、どれも間違いではないと感じるが、表現の捉え方で意味が違ってくる。
「痛」も「傷」も身体的なイタみを示しているが、「痛」は「イタみ」そのものに由来するイタみであり、心や身体の別なく感ずるものである。それに対して「傷」はその意味が示すとおりに身体や心のキズによって起こるイタみ、キズの原因となるトゲや擦り剥けなどの外からの刺激により感じるイタみであろう。「痛」は「傷」の前に位置して、「傷」はその後に感じる過程を示唆する。または、「痛」はそこに感情的意味も押し込めて表現される。前述の部長の表現がそれである。対して、「傷」は感覚的側面が強いが、かえってそこに擬態的表現が埋め込まれて「心の傷」などと使用される。もう1つのイタみである「悼」はりっしんべんが示すように、心の在り方を理性的に捉えて、心(忄)が抜きん出ている状態を意味している。それは、心が激しく揺さぶれる場合に用いられる。人の死である。情報が我々に伝えられた時、感覚が揺さぶられ、心に痛みが走り、傷みが産まれ、1つの感情へと昇華され認識されたときに、「痛」から「傷」を経て「悼」へ至る。感覚から感情へ、自我の欲求として内在して、あるときには表出される。部長の言葉には、これら3つの意味が込められていたのだろう。
◆悼むこころ
イタむことが私たちの心から表出される感情まで昇華され「悼む」とき、何ができるであろうか。行動の最初は、自らの心を捉える形から始めよう。掌を合わせ、そのなかに悲しみを捉えよう。そしてお題目を唱えよう。そして祈ろう。悲しみから多くの人びとが解き放されるように。(論説委員・池上要靖)




















