2024年12月20日
師への報恩―明年は道善房750遠忌―
日蓮聖人(1222~82)の仏弟子としての歩みは、12歳の出家、そして16歳の得度にはじまります。
仏道修行の場所は、聖人が誕生された安房国長狭郡東条郷(現・千葉県鴨川市)に伽藍をほこる天台宗系の千光山清澄寺(通称清澄山)でした。そして、出家・得度の師匠は道善房で、兄弟子の浄顕房と義浄房の2人が、聖人の「幼少の師匠」でした。
聖人が佐渡流罪の赦免後、身延山へ移られたのは、聖人53歳の文永11年(1274)5月のことです。翌文永12年は「建治」と改元され、この年『撰時抄』と名づけられる著書を「釈子日蓮」というご署名のもとに、執筆されています。和文体の110紙からなる長文の著書で、その大部分のご真筆が玉沢・妙法華寺(静岡県三島市)に護持されています。
本書は、久遠の釈尊が、末法の時代、娑婆世界の人びとを救済することを目的として、最もすぐれた尊い教えである南無妙法蓮華経のお題目を、久遠の弟子(本化の菩薩)に手渡されていることを、釈尊滅後のインド、中国、日本の3国仏教史の視点から詳しく論述された著書です。
翌建治2年(1276)、聖人のもとへ故郷の清澄寺の道善房が3月16日に遷化されたことが報らされました(『新編日蓮宗年表』27頁)。そして、この訃報から4ヵ月あまりの後、「建治二年太歳丙子七月二十一日」の日付のもと、「甲州波木井の郷、蓑歩の嶽より、安房の国東条の郡、清澄山浄顕房、義城房の本へ奉送す」(『昭和定本』)という「奥書」のある追悼文『報恩抄』1巻が弟子の佐渡公日向上人によって届けられることになります。道善房の遷化に対し、聖人は、「火の中、水の中に入っても、馳せ参じて、師の墓前にぬかずいて、聖霊の安らかなことを祈って法華経の一巻でも読誦したい」、と願われたようです。
けれども、聖人は佐渡流罪後、鎌倉、さらに身延山へと向かわれたのですから、周囲の人びとにとっては、聖人は昔の賢人、聖人のならいとして「遁世」されていると思われていることから、「いかにをもうとも、まいるべきにあらず」と、決断されたのです。
このような経緯から、故道善房の墓前に追悼文として1巻の書『報恩抄』を捧げ、弟子の日向上人に奉読することを依頼されていることが知られるのです。
日蓮聖人は、『報恩抄』の冒頭に、人として自己をはぐくんでくれた故郷、そして恩ある人たちへの感謝をけっして忘れることなく、それらの人びとへの「報恩」こそ仏道修行者の歩むべき行為だと明言されます。そして、真の報恩は、自己が仏教の教主釈尊のみこころを知る者、すなわち「智者」となることにある、と結論づけられています。
そして、これまで伊豆流罪・佐渡流罪を色読された日蓮聖人の法華経の行者としての功徳を、旧師道善房へ捧げられることを明記され、『報恩抄』は結ばれています。
このように、日蓮聖人の亡き道善房に対する「回向」の文を拝しますと、私たちも、みずからの人生を、恩ある人たちとの関連性のなかでしっかりと捉え、報恩の一分を果たせるよう生きたいものです。
明年は、道善房の第750遠忌であり、『報恩抄』ご執筆750年の尊い節目に当たることを思いつつ、筆を進めました。
(論説委員・北川前肇)




















