2024年11月20日
一華を見て春を推せよ
冒頭から、私事にて恐縮ですが、タイトルは小生の大好きな言葉です。日蓮聖人の『開目抄』に示される「一滞をなめて大海のしを(潮)をしり、一華(いっけ)を見て春を推せよ。万里をわたて宋に入らずとも、三箇年を経て霊山にいたらずとも、龍樹のごとく龍宮に入らずとも、無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも、二所三会に値はずとも、一代の勝劣はこれをしれるなるべし。(訳:海水の一滴をなめて大海の潮の味を知り、花の咲くのを見て春の到来を想え。万里の海を渡り宋の国に至らずとも、3ヵ年の長い年月をかけてインドの霊鷲山に行かずとも、竜樹菩薩のように海に入って竜宮の七宝蔵を開き仏法を受けずとも、無著菩薩のように部派の教えに満足せず弥勒菩薩に会い大乗の空観を獲得せずとも、霊鷲山~虚空~霊鷲山と場所を移して説かれた法華経を聴聞できずとも、釈尊の一代の教えの中で、何が勝れ、どれが劣っているかは知り得るのである)」(本文は昭定588頁、訳は『日蓮聖人全集』第2巻161頁から筆者が加除)。
『開目抄』は、日蓮聖人が佐渡に流罪となった文永8年(1271)10月から翌9年の2月にかけて撰述された2巻の大著で、ご自身が同書の中で「此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給ふ明鏡なり」(昭定590頁)と仰られているように、日本国の未来を案じて弟子たちのために説き明された三大著作の1つです。
その一節に「一華を見て春を推せよ」といわれた意味は、ご自身の命の危うさ、しかし厳しい冬を越えようとしている今、流罪地の塚原三昧堂付近に咲いた一輪の華にいのちの輝きを見出し、それが自らと重なったのでしょう。釈尊が法華経をお説きになられた霊鷲山は遙かに遠くとも、法華経の優越性は、今、わたしの命があることに集約されているのだと。法華経の行者という自身の使命を、「今」を輝かせる華と重ねて、やがて来る希望を仮託しているのでしょう。
今日、11月20日は1959年にユニセフ(国連児童基金)が「児童の権利に関する宣言」を提唱した日、そして30周年を迎えた1989年の同日に国連で「子どもの権利条約」が採択された日です。現在196ヵ国が批准しているこの条約は、4つの権利から成り立っています。「生命・生存及び発達に関する権利」・「最善の利益」・「意見の尊重」・「差別の禁止」です。
まったく当たり前の内容ですが、現在、世界で、この国で、「こども」たちの生活は脅かされていないといえるのでしょうか。読者諸氏の答えは「否」ですね。日本に限っていえば、批准は1994年で158番目、昨年4月1日にようやく施行された「子ども基本法」が国内法と位置づけられます。批准から30年、余りに遅い対応といえるでしょう。
「仏」からみれば私たちは「子」となります。回向文の一節に「諸法従本来 常自寂滅相 仏子行道已 来世得作仏(諸法はもとよりこのかた常に自ら寂滅の相なり。仏の子、道を行じおわりて来世に仏となることを得ん)」と方便品の経文を引いて供養しています。
つまり、年齢に関係なく、生死にも囚われずに、存在のすべては「仏子」であり、大慈悲の対象なのです。諸法という存在するすべての者は、老若男女、人種、国籍を問われることなく仏子として尊重される存在。互いを敬い、慈しみ合うことの象徴が「こども」でしょう。仏子であることの喜びを抱きつつ、合掌して、すべての存在を尊び、感謝致しましょう。「南無妙法蓮華経」 (論説委員・池上要靖)




















