2024年7月1日
色彩豊かで想像力を深める読経
今は亡き大先輩の師僧に、「お経を読むときは、登場人物や場面を思い描いて、それに自分なりの色彩をつけて読むことが大切である」と教えられた。
例えば、法華経の冒頭の序品第1は、霊鷲山の山中でお釈迦さまの説法を聴聞しようと大勢のお弟子たちが参集している場面から始まる。霊鷲山というのはどのようなお山だろうかと想像し、そこに参集する菩薩さまにはそれぞれ名前がついていて、多くのお弟子を従えている、その場面を想像するのである。お釈迦さまやお弟子たちの服装はどうであろうか、お顔の表情はどうであろうか、音声はどうであろうか、場面の色彩はどうであろうか、明け方なのか夕方なのかで場面の雰囲気も変わってくるであろう、などなどの想像をたくましくしながらお経を読むと、味わいが深くなるというのである。正しい想像を可能にするのは正しい知識であり、そのためにお経の内容について研鑽することが求められる。
今年4月に92歳で亡くなるまで現役で世界中を飛び回って活躍していたピアニストのフジコ・ヘミングさんは、「音符と音符の間に揺れを作ることで表情が生まれ、弾く人の色になる」と表現していたが、同じ楽譜を基に弾く音楽でも、弾く人によって全く異なる表情になり、聴衆は異なる色彩を感じることになる。いかに聴衆にありありと色彩豊かな世界を感じさせることができるかが、演奏者の力量ということになる。
同じように、釈尊の説法の場面設定のシナリオと説法の内容は、経典に示されている。経典に詳細に示されている場面設定や釈尊の口から発せられる言葉、聴衆の言葉や表情を、お経を声に出して読むことによって、いかにありありと現実のものとして現出させることができるかが、読経する者の力量である。
あたかもピアノの奏でる音楽に豊かな表情や色彩を感じるように、読経している本人や読経の声を聞いている聴衆が、釈尊説法の世界をいかに具体的にイメージ化できるかに、読経する者の能力が問われている。
『法華経』の法師功徳品第19に、5種類の修行方法が説かれている。いわゆる、受持、読(経文を見て音読すること)、誦(経文を見ないで音読すること)、解説、書写の5種類の修行方法である。
ここでいう読と誦には、ただ単にお経を読むというにとどまらず、いかに経典に示されている釈尊説法の世界を具体的に、色彩豊かに自らも感じ、人にも共感させることができるかという意味が含まれている。同じように、お題目を唱えるということは、法華経の世界を立体的に、色彩を持った世界として眼前に現出させることである。
近年コロナ禍を奇貨としてリモート唱題行やリモート法要などが行われるようになってきている。リモート会議では、直接対面して話ができなくても十分内容のある意見交換ができる。たとえパソコンやスマートフォンを介した唱題行や法要であっても、そこに法華経の世界がまざまざと出現し、その世界に心を安らげることができるならば、有効な手段であるといえる。
問題は、お経の読誦や唱題の発信者と受け手の心が正しく同期しているか否かということである。発信者の側に迷いや過ちがあっては、受信者が正しく受け取り豊かなイメージを広げることができない。発信者は常に自らの法華経理解が正しいか否かを自省し研鑽を深めなければならない。
(論説委員・柴田寛彦)