2024年6月1日
富士は日本一の山
初夏の富士山の美しさを思いながら、大型連休のオーバーツーリズム(観光公害)の新聞記事について考えさせられました。富士山にも、登山客が殺到し、今後の入山規制や料金徴収、登山鉄道敷設などの問題が提起されていたからです。
富士山が世界文化遺産に登録されて今月で早や11年になります。当時、論説で富士山が取り上げられていましたが、改めて今日の視点で富士山について考えてみます。その記事は、世界文化遺産として登録された喜びと平和の象徴として大切にしたいという内容でした。それは良いとしても、世界遺産の登録や観光資源としての活用や鉄道敷設などという現代の価値観だけで霊峰富士を仰ぎ見て良いのだろうかと思ったのです。
富士山は人の力で築けるはずもありません。長い火山活動の中で生まれた人智の及ばない霊山であり、有史以前から人びとの心の支柱になっていたはずです。しかも、これからもずっと霊峰富士と崇められ、日本的な美しい容姿で聳え続けてくれるはずなのです。
古くは1400年前の聖徳太子が甲斐の黒駒で富士山を飛び越えたとか、その後の役小角が空を飛んで富士に登り修行したとかの伝説が残されています。いずれも法華経を大事にした仏教者です。
日蓮聖人も若い頃の遊学の途や岩本實相寺での研鑚、鎌倉、伊豆、富士での布教、晩年の身延山奥の院思親閣から仰がれた富士山に大きな法華経弘通の覚悟と希望を持たれたに違いありません。富士の信徒南条氏の母尼宛のお手紙には「この法華経を持つ人が天照大神、八幡大菩薩、富士千眼大菩薩をどうして捨てることがあろうか」と述べられ、富士浅間神社を大事な守護神として挙げられています。それが後の富士山中腹5合5勺の天地の境に、自ら書写された法華経を埋経され、現在、身延山久遠寺の直轄地である経ヶ岳の伝説にも繋がります。もちろんこの法華経伝説の関わりだけでなく、日本人は素直に富士山の美しさに感動する感性を長い歴史の中で育んできました。しかし現代、この富士を敬い、郷土を愛し、国家国民に奉仕するという意識を持った日本人は急激に減少しています。ましてや悠久の富士に諭されるように、今を生きる人だけではなく、泉下の過去に生きた数多の同胞や、これから生き続けていく幾多の人びとに思いを馳せ、先祖の精霊、未来への久遠の生命を尊重するのが宗教者の使命です。
しかし、私たちはどうでしょう。それだけの気概を持って未来の国家を案じているでしょうか。その未来を決めるのはまず政治です。しかしまた、この政治が機能を果たしておりません。目先のことに追われて生き残りに躍起となる政治家や宗教者がどうして国家国民の幸せや未来を考えることができるでしょうか。
伊集院静の小説『いとまの雪』にある山鹿素行の言葉「生きるは束の間、死ぬはしばしのいとまなり」を自省を込めて噛みしめています。軍学者・素行は「天下国家を思わば、我一人我が家のみの為に使う兵、民これによりて死して国滅ぶ」と言っています。国家安穏を祈られた日蓮聖人は「一身の安堵を思わば四表の静謐を祈るべし」と、自らの幸せを願うなら、まず社会の安穏を祈らなければならないと教えられています。
この便利すぎる現代は、いつでもどこでも、今現在の富士山をライブ中継で見ることができます。「やっぱり富士は日本一の山」と、改めてこのライブの富士山を拝みながら、希望を持って明日に向かいたいものです。(論説委員・岩永泰賢)