2017年3月1日
仏弟子とはどうあるべきか
身延山奥之院の境内に元政上人埋髪塚があります。かつて京都・深草瑞光寺開山元政上人(1623~68)が、病身を顧みず、年老いた母を輿に乗せ身延山に詣で、父親の遺骨と自分の髪を埋葬した塚です。生涯父母への孝養を怠らなかった元政上人。日蓮聖人の御真骨を拝し
「何ゆえに くだけしほねの
なごりぞと おもえば
袖に玉とちりける」
と感涙をこぼした元政上人。今年、第350遠忌の正当を迎えました。
元政上人は出家以来、一部の戒を軽視する風潮を憂い、「仏弟子とはどうあるべきか」を求め持戒堅固に徹しました。教学に通じ、殊に『日本書紀』や漢詩などの文学に天凛を発揮し、石川丈山や陳元贇など当代一流の文化人と深く交わりました。
自坊の京都市常照寺(鷹峰檀林旧跡)には『元政上人二七歳筆一念三千圖之記』があります。慶安2年(1649)元政上人剃髪の翌年に書かれたもので、一念三千について、十如是之事・五●之事・●法蓮華経之事・大覚世尊之事・諸仏出世之事の五項から論述しています。端正な楷書の筆跡から敬虔な信仰の姿が伝わります。文中「末法に本門五字の妙法を以て流通し群類を引導したもう。所謂、意に妙法五字を念じ口に五字を唱え行住坐臥此を怠らず…」と記し、本門の題目は専ら身口意三業で受持すべきと説いています。
元政上人は洛北鷹峰を訪れ『遊鷹峯記』『重遊鷹峯記』などの紀行文を著しました。寛文3年(1663)夏の『常照講寺記』には「今茲夏孟余 偶北峰に来たって常照寺の密邇に僑す。毎に講論を聞くの外、日に読誦の音あり。余人に謂ひて曰く、凡そ談林の風、講習討論、以て之を勤と為して、誦経を兼ねざるを業となす。此の山並び行うことは独り何ぞや。曰く、講主自ら読誦を勤む。其の勤めざる者をば以て吾が徒に非ずとなす。…利養を貪らず。劬労を憚らず、伝燈を得んと欲せば、多く山寺にあり。読経法事並に物の軌となる。此の如き仏恩を報ずと名づくべし…」とあります。
(常照寺を訪ねると講義以外に読経が聞こえた。檀林では講論中心と聞くが、鷹峰檀林では化主が読誦に励み、読誦せざる者は弟子に非ずという。…指導者たるもの利益を貪らず、伝燈のためには山に籠り専心読経すべし。これ仏への報恩なり。…意訳)
また、元政上人は門下のために『艸山要路』を著し「信以って之を立て、疑以って之を定め、戒以って之を制し、衣食以って之を養い、住処以って之を保ち、知識以って之を調え、誦以って之を鼓し、静以って之を正し、学以って之を明かし、指帰以って之を致す」(文中「之」は仏道の意)と仏道の軌範を示しました。瑞光寺第2世慧明院日燈上人(『艸山清規』著者)作と伝わる「寒水白粥・凡骨将死・理懺事悔・聖胎自生」(寒水白粥凡骨将に死なんとす。理懺事悔、聖胎自から生ず)の句に、草山一門の修行精神が伝わります。
生涯、仏弟子としてのあり方を探求し、常に孝養心を忘れず、教養を具えた求道者元政上人。世寿46歳というあまりに短い生涯でした。元政上人一門が伝えた修行の綱領は後に「法華律」と呼称されましたが、それは戒律のための戒律ではなく、あくまで「仏弟子とはどうあるべきか」を純粋に求めた行儀作法であり、私たち日蓮門下にとって貴重な道標です。
(論説委員・奥田正叡)