2013年7月10日
僧侶のあり方を考える
道服に輪袈裟をかけたままタクシーに乗った。当然ながら僧侶であることは一目瞭然である。行く先を告げて座席に深く座り直し前を見ると、運転手さんの髪の毛が見事な白髪であった。同時に、この職業は何歳まで勤められるのかという疑問が起こったので聞いてみた。「失礼ですがおいくつになられますか」すると運転席から予期しない答えが返ってきた。「あなたは僧侶でありながら実に失礼だ」「私はまだ40歳代なのだけれども、病気でこのように白髪になってしまったのだ」「病気で悩んでいる人にそんな口をきくなどとんでもない」即座に非を詫びたがなかなか納得してくれない。そのうちに旦那寺の住職の自慢話になった。
曰く。「うちの寺の住職はあんたと違って立派な方でね」「いつ行っても奥の部屋に通してくれてお茶とお菓子を出し、世間話に時間を割いてくれるよ」その寺は他宗の寺であったが、仏教会の事務局長や会計を歴任した後だったからその住職のことはよく知っていた。その住職は檀家を大切にすることにかけては有名だった。
多くの人たちにとって、仕事と家庭生活を両立させることは困難なことであろう。最近では大阪市の橋下市長があれだけの激務をこなしながらも、常に良き父親としての任務も果たしているという情報があったばかりだ。家庭が落ち着いていなければ良い仕事はできないだろう。
多くの寺にとって檀家とは土台のようなものだ。家族と言ってもよい。この土台が落ち着いていなければ僧侶は安心して仕事を続けられない。だから程度の差こそあれ、どの寺でも檀家を大切にしている。しかし、檀家を大切にしていさえすればそれで僧侶としての職務を全うしているといえるのだろうか。それは違うだろう。一家の主は、家庭が大切だから社会に出ているときの自分を大切にする。社会に出てすべきことをしているから、家庭を守ることができる。まして現代に於ける寺は「公益法人」である。公益とは不特定多数の者の利益の実現を目的としているのであり、地域内どころか誰に対しても役に立つものでなければならない。そこで働く者は僧侶であれ、事務職員であれ公益性が求められている。住職が、檀家に信頼される努力をする事は大切だが、毎日がそれだけで終わっていたのなら、結果としてその職務を全うしていることにはならない。
こんな時に法律の話を出さなければ納得してもらえないというのも情けない話だ。宗祖は、檀越によって生活が成り立っていたが、そのご生涯は広く一般社会を救うためのものだった。檀越だけを大切にされていたわけでは、断じてない。
檀家を大切にすることを第一と考えることは悪いことではない。当然のことではある。その上でさらにすべきことが僧侶にはあるのだということが言いたいのだ。だから若い僧侶には世間に出てほしい。世間に出ないまでも、寺の施設そのものを社会全体のために使うだけでも良いのではないか。危惧されている東南海地震発生の時には、寺が避難所であり遺体安置場所であってほしいと願う人たちも多い。これには町内会などとの事前の取り決めなどが極めて大切で、すぐにとりかかっても早すぎることはない。
戦後生まれが人口の大半を占めつつある今、一般社会の寺に対する考え方は大きく変わっている。寺が社会の中心だった昔を懐かしむのではなく、未来の寺はどうあるべきかについて真剣に考え、今できることをすぐにでもしておくことだ。今は未来から見れば過去なのだから。
(論説委員・伊藤佳通)
